主イエスの執り成し
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
11 聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
ヨハネによる福音書 17章6節-19節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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イエス様は、弟子たちと私たちのために、「彼らを守って下さい」と執り成し祈ってくださいました。しかし、これは「彼らが世を離れて信仰者だけの共同体を作り、守られるように!」という祈りではありません。現にイエス様は、この後でこう祈っておられます。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(15節)。
イエス様は、弟子たちが世にとどまることを求められました。何故ならば、彼らには、世で大切な使命が与えられていたからです。18節にはこう言われています。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」
私たちは、世から離れて信仰を保つのではありません。世に遣わされた者として生きるのです。しかも、その世は神様を無視し、神様の愛を踏みにじり、神様に敵対している世です。私たちはそういう「世」に遣わされるのです。当然、そこには激しい戦いがあることでしょう。しかし、その戦いの真の相手は世ではありません。あるいは周りの人々でもありません。イエス様は、「世から守って下さい」と祈られたのではなくて、「悪い者から守ってください」と祈られたのでした。この「悪い者」というのは、いわゆる「悪人」のことではなくて、私たちを罪に陥れ、神様から引き離し、滅ぼそうとする大きな力、つまり悪魔のことなのです。世に遣わされた私たちが、悪魔の力に負けることなく、立派に戦い抜くことが出来るように。そのためには、まずあなた方自身が互いに仕え合い、愛し合って、一つとなるように。そうやって父なる神様との交わりの中にとどまることが出来るように、と主は祈って下さったのでした。
私たちは、この世と戦う力を、いったいどこからいただくでしょうか。御言葉によって、あるいは祈りによって、それぞれに神様から力をいただくこともあるでしょう。けれども私たちは、もう御言葉を読むことも、祈ることも出来ないほどに打ちのめされている時があるのです。そんな時に私たちは、どこから力をいただくのでしょうか。それは教会です。兄弟姉妹の交わりです。試練の時に、兄弟姉妹の慰めの言葉が本当に心に染みてきたことを、私は何度も経験しました。自分ではもう祈ることすら出来ない、そんな時に教会の兄弟姉妹が親身になって、涙を流しながら真剣に祈ってくれたのです。何度、そういう執り成しの祈りに支えられたことでしょう。そうやって教会の兄弟姉妹が、互いに愛し合い、仕え合い、痛みを分かち合い、一つになっている時に、まるで教会の一人一人がキリストの目であり、足であり、手であり、耳であり、口であるかのように、互いに励まし合い、慰め合い、力になることが出来るのです。
教会の中には、若い人もいれば、年老いた人もいます。元気な人もいれば、病気がちな人もいます。明るく和やかな雰囲気をつくる人もいれば、物静かな人もいます。ずば抜けた才能を持ち合わせた人もいれば、極々平凡な人もいます。みんな、それぞれに個性があるのです。育った環境も違いますし、信仰の成長段階も様々です。そういう一人一人が、そのままで世に遣わされます。もともと違う人間として造られたのですから、生き方が違うのは当然でしょう。何も他人と比べる必要はありません。それぞれ自分に与えられた恵みを過大評価することなく、また過小評価することもなく、正しく受けとめて、自分なりの仕方で献身すればよいのです。しかし、そういう様々な個性をもった一人一人がそれぞれに献身し、イエス・キリストにあって一つとなる時に、そこに本当に豊かな働きと交わりが生まれます。そこに命が息づき、教会が生きたキリストの体となるのです。教会の中心にイエス・キリストの命が息づいていて、一人一人がキリストの手となり、足となり、目となり、耳となり、口となる。その時に一人一人の小さな働きが、本当に大きく大きく用いられていきます。イエス様は、教会がそのようにして一つとなり、守られるように、と祈って下さったのです。
私たちの信仰の歩みは、このイエス様の祈りによって支えられています。イエス様が私たちのために、父なる神様に執り成し、祈って下さるのです。この祈りがここに記されているのは、私たちの信仰の歩みが、私たち自身の善い行いや努力によってではなく、このイエス・キリストの執り成しの祈りによって支えられていることを示すためでした。
今私たちの目の前には、様々な困難が横たわっています。依然として私たちはコロナ禍を生きています。先行きの見えないウクライナにおける戦乱、世界的な経済不況、環境破壊、地球温暖化により拡大する自然災害に全く歯止めがききません。そういう先の見えない不安が、今、私たちを支配し、苦しめているのです。しかし、何も心配する必要はありません。十字架と復活をくぐり抜けた私たちの主イエス・キリストが、今は父なる神様のみもとにいて、私たちのために、執り成し祈っていて下さいます。イエス様の祈りは必ず聞き上げられます。私たちの祈りは、しばしば的外れな祈りであるために、必ずしも私たちの願い通りに応えられないこともあるでしょう。しかし、たとえそうであったとしても、神様は私たちの祈りを決して無視なさいません。ちゃんと受け止めて下さいます。そして最善の方法で私たちの願いに応えて下さるのです。ましてやイエス様の祈りは、決して的外れな祈りではありませんから、神様は、このイエス様の執り成しの祈りの通りに必ず応えて下さるでしょう。神様の心とイエス様の心は完全に一致しています。ですから私たちは、たとえ目の前の現実が絶望的であったとしても、今日のイエス様の祈りに支えられながら、決して諦めることなく、現実としっかりと向き合い、希望をもって歩み続けていきたいと思います。