すべての人を一つにして下さい
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- 説教
- 吉田謙 牧師
21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。・・・23 こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
ヨハネによる福音書 17章20節-26節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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イエス様は、心を尽くして「教会の一致」のために祈って下さいました。そして教会の中に、このイエス様が願っておられる一致が実現するならば、その時に教会は世に知られるようになる、と言われているのです。では、どのように知られるようになるのでしょうか。それは、「イエス・キリストは本当に神様から遣わされたお方であり、私たちの救い主である!」そして「教会の中にいる者たちを神様は本当に愛しておられる!」ということです。このことを世の人々は知るようになる、と言うのです。
元僧侶であった方の証しを以前読んだことがあります。その方が回心されたきっかけは、奥様の回心であった、と言います。奥様は駅前で配られた特別伝道集会のチラシを見て、生まれて初めて教会の門をくぐったそうです。ただし、その時の牧師の話はあまりよく分からず、心には残らなかった、と言います。けれども、夫人の心を捕らえて離さなかった一つのことがありました。それは、教会の中にあった何とも形容しがたい「和」であった、「一致」であった、と言うのです。老若男女、様々な人がいるというのに、どうしてこれほど仲良くできるのだろうか、本当に不思議だったそうです。彼女は感動して家に帰りました。それは自分の寺の現実とあまりにもかけ離れていたからです。彼女は、教会のこの「和」と「一致」に魅せられて、その翌日も教会へ行き、やがては信仰を告白するにまで至った、と言うのです。そして、最初は猛反対していた僧侶であった夫も、そのご夫人を通して、やがて真の神様を知るようになったそうです。
このご夫人が救われたのは、教会の不思議な一致に魅せられたからでした。最初、このご夫人が教会の礼拝に出席した時には、牧師の語るメッセージが全く分からず、チンプンカンプンだったのです。けれども、彼女は教会の独特な雰囲気の中に、神様の存在を感じ取ったのでした。「確かにここには神様がおられる!」と。彼女は、最初から聖書の御言葉を通して神様の素晴らしさを知ったわけではありません。既に御言葉を受け取り、信仰に生き始めていた教会の一人一人の姿を通して、神様の素晴らしさを知ったのです。これは決して珍しいことではありません。教会に初めて来られた方々は、多かれ少なかれ既に信仰に生き始めている私たちの姿の中に、神様を見ているのではないでしょうか。
教会が一つであることについて、パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中でこのように語っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」コリントの信徒への手紙一12章27節の御言葉です。一人一人の個性を殺して、みんな右に習え!白一色、青一色、赤一色という具合に、画一的に一つになるのではなくて、それぞれの個性は重んじつつ、また互いの欠けは補い合い、支え合いながら、みんながイエス・キリストとしっかりと結ばれて、キリストの体として一つになる、ということです。宗教改革者ルターは、この御言葉を受けて、教会に生きる一人一人は小さなキリストであると言いました。これはとても畏れ多いことですが、その通りだと私は思います。教会はキリストの体です。ある人はキリストの手であり、ある人はキリストの足であり、ある人は目であり、耳であり、口である、と言われます。教会員の一人が、初めて教会に来られた方の横に座り、聖書や讃美歌の箇所をそっと開いてあげたならば、それはキリストがその方を遣わして、初めて来られた方の不安を思いやり、聖書や讃美歌の箇所をそっと開いてあげた、ということでしょう。教会員の誰かが、一人の人の悲しみにじっと耳を傾け、共に祈り、涙するならば、それはキリストが、その一人を通して、その方の悲しみにじっと耳を傾け、その方のために祈り、涙しておられる、ということです。つまり、教会の一人一人は、皆、小さなキリストになって世に遣わされていくのです。世の人々は、その私たちの姿を通して神様を知ることになります。勿論、私たちは不完全ですから、完全に神様をあらわすことなど出来ません。本当に神様を知るには、一人一人が直接、神様に出会い、聖書の御言葉から教えられなければなりません。けれども、それはもっと後になってからの話でしょう。最初は教会に生きる私たち一人一人が神様をあらわすのです。
もし教会の中で、優れた才能の人たちだけがもてはやされ、そうでない人たちが教会の片隅で小さくなっていたとするならば、どうでしょうか。教会に初めて来られた方々は、そういう様子を見て、どう思われるでしょうか。教会が信じている神様は、優れた才能をもった人たちだけを愛し、救うような神様ではないか、と判断することでしょう。あるいは、もし教会の中で言い争いがあり、お互いに傷つけ合い、裁き合っているとするならば、それはその教会が信じている神様は裁く神様であり、駄目な者はバッサバッサと切り捨てる冷酷な神様であることを表していることになります。「それはとんでもない誤解です!私たちは弱く、罪深く、裁き合ってしまいますが、私たちが信じている神様は決してそうではありません。罪を赦し、愛して下さる神様です!」たとえ、そういう言い訳をしたとしても、そんな言い訳は世には通用しません。これは厳しいことですが、紛れもない事実です。
しかし、「求道者の方々の模範になり、立派に振る舞わなければ!」とガチガチになって緊張する必要はありません。これは、自分の力で頑張ってすることではなくて、私たち一人一人の賜物を用いて、神様ご自身がして下さることです。ですから、私たち一人一人がイエス様としっかりと結び合わされ、救われた喜びに生きているならば、決して頑張らなくても、それは自然と私たちの内側から溢れ出てくるものではないかと思います。