日曜朝の礼拝「喜びの知らせ」

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喜びの知らせ

日付
説教
吉田謙 牧師
8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
ルカによる福音書 2章8節-20節

 あのクリスマスの夜に、神様の愛が明らかにされました。野宿していた羊飼いたちに、キリストの誕生の知らせが真っ先に届けられたのです。旧約聖書の時代、羊飼いは、人々からとても慕われ、信頼されていました。あの有名なダビデ王もかつては羊飼いでした。しかし時代を経て、イエス・キリストがこの地上にお生まれになった頃の羊飼いは、どうも一般の人々からは卑しい身分の者と思われていたようです。特別な教養がなくても羊飼いにはなれましたし、現に当時の羊飼いの中には職にあぶれたならず者が少なからずいたようです。主イエスがヨハネによる福音書の中で、「私は羊飼いである」と言うのではなくて、あえて「私は良い羊飼いである」と言わなければならなかったのには、そういう背景があるのです。彼らは、人々から「神様から見捨てられた者!」と決めつけられ、軽蔑され、社会の片隅でひっそりと暮らすしか術がなかった人たちでした。そういう羊飼いたちに、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という知らせが真っ先に届けられたのです。これは、イエス・キリストのもたらす救いが、どういう救いであり、どういう人々に与えられる救いなのかを明確に表す出来事ではなかったかと思います。イエス・キリストの救いは、呼び求める全ての人々に提供される救いです。地位や名誉や学歴や資質には全く関係ありません。たとえ人々からどんなに冷たく扱われていたとしても、人々からは全く存在価値が認められていなくても、このイエス・キリストの救いから漏れることは決してありません。これがクリスマスのメッセージです。

 それでは、この知らせを聞いた羊飼いたちは、いったいどういう思いを抱いたでしょうか。最初から喜ぶことが出来たでしょうか。9節には、「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」と言われています。主の天使は主なる神様の使いの者ですから、当然、天使の後ろには主なる神様がおられるということでしょう。ですから羊飼いたちは、神様が自分たちを滅ぼすためにやってきたのではないかと感じ取り、「非常に恐れた」のです。この「非常に恐れた」という言葉は、直訳すると、『大いなる恐れをもって恐れた』となります。恐れが何重にも強調されているのです。彼らがどれほど大きな恐れを覚えていたのかが、よく言い表されていると思います。罪人である私たち人間は、羊飼いたちがそうであったように、神様の御前に立たされる時に、当然、恐れずにはおれません。私たちは、神様に裁かれることを、皆、多かれ少なかれ恐れているのではないでしょうか。けれども神様は、あのクリスマスの日に、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。御子イエス・キリストは、やがてあの十字架の上で、私たちの罪を全部背負い、本来、私たちが受けなければならなかった神様の怒りと呪いを、全部、その身に引き受けて、身代わりの死を遂げて下さったのです。そのことのゆえに私たちの罪は完全に赦され、こじれていた私たちと神様との関係も修復されて、神様との間の平和、和解が与えられたのです。もう私たちには滅びではなくて、永遠の命が約束されています。何という幸いでしょうか。この時、天使たちは、「神様から見捨てられた者」と決めつけられ、軽蔑され、社会の片隅でひっそりと暮らすしか術がなかった羊飼いたちに、この喜びの知らせを真っ先に届けたのです。ここに神様の御心がはっきりと示されていると思います。

 ある精神科の先生が人間には三つの自分があると言いました。第一は「見られる自分」、第二は「見る自分」、そして第三は「根源の自分」です。私たちは、周りの人から、どのような人なのかを観察され、見られています。これは「見られる自分」を使っている、ということでしょう。また私たちは、自分自身で自分がどういう人間なのかを判断します。自分で自分を見るのです。これは「見る自分」を使っている、ということです。もしこの二つだけだったなら、本当に寂しい世界ですね。しかし本当は、もう一つ一番大切な奥深い自分というものがある。そして、これこそが本当の自分であり、「根源の自分」なのです。

 私たちには「見る自分」や「見られる自分」だけではなくて、「根源の自分」があります。私たちが自分自身のことをどう見ているか、評価しているか、あるいは人が自分のことをどう見ているか、評価しているか、そんなことよりも、もっともっと大切な根源の自分自身、本当の自分自身というものがある。私たちは、それをどれほど大切にしているでしょうか。

 根源の自分は、人間を造られた神様が一番よくご存じです。ですから人間は、造り主である神様の手に握られる時に初めて、その人らしく生き生きと輝いて生きることが出来るのです。私たちが様々な事柄で病んでしまい、人生の迷子になってしまうのは、この神様との関係がぼやけてしまうからでしょう。神様からの信号をしっかりと受け止めようとしないので、私たちは自分勝手な方向へと突き進んでしまい、やがて人生の迷子になってしまうのです。天地の造り主なる神様が、この私のことを、ご自身の独り子と引き替えにして下さるほどに、価高く、尊い存在として受け止め、愛し抜いて下さいます。そして、その神様の愛は、決して変わることがありません。私たちが年老いて仕事が出来なくなっても、若い時の元気や美貌が失われていっても、たとえ寝たきりになったとしても、あなたがあなたであることには変わりない。そしてあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛している、と言って下さる。「あなたは生きよ。命を受けよ」と、ご自身の独り子を身代わりとして十字架に送って下さったのです。この神様の愛の中に私たちが立ち返る時に、もう私たちは人の評価を恐れる必要はありません。一生懸命自分に価値があることを人に示さなくてもいい。自分らしく輝いて生きることが出来るのです。揺れ動く人の評価ではなくて、天地を造られたお方が、私たちを値高く、尊い存在として見ていて下さるからです。

 御使いは、羊飼いたちにこう言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と。

 様々な問題を抱え、もがき苦しんでいるあなたを救うために、そういうあなたの根源の自分を引き出し、あなたがあなたらしく輝いて生きることが出来るように、イエス・キリストはこの世にお生まれになったのです。メリークリスマス!

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