教会の土台
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。15 ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
コリントの信徒への手紙一 3章10節-15節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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教会の土台は十字架と復活のイエス・キリストです。しかし、たとえその土台の上に建物を建てるにしても、それを何によって建てるかによって、その建物の姿は随分と変わってきます。ですから、私たちは自分の人生を建て挙げていく時に、また教会を建て上げていく時に、何を素材として建てていくのかをしっかりと吟味しなければなりません。ここには、六つの素材が並べられています。これらは前半の三つと後半の三つに分けることができるでしょう。つまり「金、銀、宝石」と「木、草、わら」です。そのように二つに分けるのは、その後のところで、おのおのが建てた建物が「かの日」に火によって吟味され、それが残るものなのか、それとも燃え尽きてしまうものなのかが明らかにされる、と言われているからです。ここで言う「かの日」というのは、神様がこの世の全ての者を審かれる終わりの日のことです。ですから「吟味する火」というのも、神様による「審きの火」のことを言い表しているのでしょう。神様の審きにおいて、私たちの建てる建物は、「残る」ものと「燃え尽きてしまう」ものとに分けられる。つまり、神様の審きに耐えられるものと、そうでないものとがある、と言うのです。そして、そのことが、何を素材として建物を建てるかによって決まるのです。ですから私たちは、教会を、また自分の人生を建てていくに際して、神様の審きに耐え得るような素材を捜し出し、吟味しなければなりません。
けれども、どうでしょうか。私たちはそのようにして慎重に素材を吟味しながら、一生懸命、家を建てていく時に、終わりの日の審きに耐え得るような家を建てることが出来るのでしょうか。正直言って、まだ私には心許ない思いがいたします。神の審きの火に耐え得る素材を見出す、これは確かに重要なことでしょう。重い事柄としてしっかりと受け止めなければなりません。けれども、あまりそういうことばかりに気を回しすぎると、私たちの教会の歩みは、また一人一人の人生は、縮こまってしまうのではないかと私は思います。けれども、そんな私たちがしっかりと聞いておくべき御言葉が、今日の14節と15節に記されています。「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」
私たちの建てる建物が、終わりの日の審きの火に耐え、残り続けるならば、私たちは報いを受けるでしょう。神様が私たちの働きを喜び、「忠実な僕よ。よくやった」と豊かに報いて下さる。けれども、それが燃え尽きてしまえば、損害を受けます。しかし、それで終わりではありません。その人自身は、火の中をくぐり抜けて来た者のようにではあるが、救われると言うのです。つまり、私たちの建てる建物は、素材が悪ければ審きの火によって燃え尽きてしまい、跡形も無くなってしまいます。けれども、私たち自身は、火事場から救い出された人のようであっても救われるのです。要するに、この審きの火は、私たちを焼き滅ぼす地獄の火ではない、ということです。私たちが自分の人生において、また教会を建て上げることにおいて、建て方を間違えてしまう、神の審きに耐えないようなものしか建てることが出来ない、たとえそうであったとしても、私たち自身は、焼き滅ぼされてしまうのではなくて、救いにあずかることが出来るのです。それは何故かと言うと、土台がしっかりしているからです。その土台とは、言うまでも無く十字架につけられたイエス・キリストという土台です。この土台の上にある限り、私たちは終わりの日の審きの火をくぐりぬけ、復活されたキリストの新しい命、永遠の命にあずかることが出来るのです。
神様は私たちの人生に、十字架のイエス・キリストという確固たる土台を据えて下さいました。この土台の上に、自らの人生を、またこの教会をしっかりと建て上げていきたいと思います。そのためにも相応しい素材を見分け、また私たち自身がこの土台としっかり結び合うことによって、神様の建物である教会のよい素材となっていきたいと思います。けれども、そのことを目指す私たちの歩みは、決して「失敗したら滅ぼされてしまう!」とビクビクしながら生きるようなものではありません。私たちには、神様によって、十字架と復活のイエス・キリストという揺るぎない土台が与えられています。このことを心から感謝しつつ、この土台の上に御心にかなう家を建てるために、のびのびと、また喜びと希望をもって、この年も励んでいきたいと思います。