日曜朝の礼拝「思い患いから平安へ」

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思い患いから平安へ

日付
説教
吉田謙 牧師
6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピの信徒への手紙 4章6節-7節

 今日の箇所でパウロは「思い煩うのはやめなさい」と勧めました。これは、実際に大きな心配事を抱えている人にとっては、少々腹立たしい言葉に聞こえるのかもしれません。「どうして、そんな呑気なことが言えるのか。私がどんな大きな苦しみを味わっているのか、ちっとも知らないくせに!」と。けれども、この手紙全体を読む時に、パウロは何の心配事もない中にあって、呑気にこの手紙を書いたのではない、ということが分かります。パウロは、この時、もしかすると明日にでも死刑になるかもしれないという非常に緊迫した牢獄の中から、この手紙を書いていました。そして、パウロが愛していたこのフィリピの教会には、迫害や内輪もめや異端や色んな心配事が沢山あって、それがパウロのもとにも届いていたのです。きっとパウロは、すぐにでも飛んで行って、教会を直接指導したいという思いに駆られたことでしょう。けれども、この時パウロは、牢獄に監禁されていたのです。いくら心配しても、どうすることも出来ません。パウロはどれほど歯がゆい思いをしたことでしょう。しかし不思議なことに、このフィリピの信徒への手紙には、そういう心配事とは全く無縁の『喜びの手紙』というあだ名が付けられているのです。何故でしょうか。それは、実際にこの手紙全体には、喜びが満ち溢れているからです。パウロは、様々な思い煩いの種を一杯抱えながらも、イエス様を信じる信仰によって、この喜びの手紙を書き残すことが出来ました。ですから、パウロは決して無責任に、「思い煩うのはやめなさい」と勧めたわけではありません。そうではなくて、パウロは自分自身の経験を踏まえながら、「ほら、この通り、私はこんなに思い煩いの種を一杯抱えながらも、喜びに生きることができている。それは思い煩わなくてもよい道があるからだ。あなた方もこの道を歩みなさい!」このように勧めたのです。では、それは、いったいどういう道でしょうか。

 パウロが示したのは、「祈り」という道でした。6節の中頃にはこう言われています。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」これが、パウロが自分自身で経験した、思い煩わないための道筋だったのです。

 私たちは、自分自身で自分の人生を握っているのではありません。あるいは、何か別の不気味な力が私たちの人生を握っているのでもありません。私たちの人生は、全て神様が握っておられるのです。しかもその神様は、私たちの救いのために、ご自分の独り子をも惜しまずに十字架につけて下さった神様です。それほどまでに私たちを愛し抜いて下さる神様です。そして、御子を死の力から復活させることが出来た神様です。どんな悲しみでも、どんな悩みでも、たとえ死の力であっても、打ち破ることの出来る神様であります。この神様が、私たちの全てを握っておられます。私たちは、祈る時に、この神様に心を向けるのです。パウロは、「何事につけ、求めているものを神に打ち明けなさい」と言いました。「こんなちっぽけなことは、神様の手を煩わすほどのことでもない、自分でかたずけよう!」と考えてはならない、全部神様に打ち明けるように、と言うのです。

 旧約聖書の詩編は、イスラエルの祈りの書と言われます。初めから終わりまで、ずっと祈りが綴られているのです。この詩編を読みますと、色んな祈りがあることを教えられます。あるところには、神様をほめたたえる賛美があります。また、あるところには、「助けて下さい!私はもう耐えきれません」という叫びがあります。またあるところには「神よ、神よ」と、しきりに呼びかける呼びかけがあります。また、あるところには、「ただぶつくさ文句を言っているだけではないか!これが信仰者なのか?!」と思えるような泣き言もあります。しかし、どれをとってみても本当は祈りなのです。本当に信頼している神様に対して、自分の思いのたけを、小さなことであっても、大きなことであっても、全部洗いざらい打ち明けているのです。詩編を読む時に、私たちはそういう祈りを見い出します。私たちには、そういう祈りが許されているのです。神様は、そんな私たちの祈りを「馬鹿なことを言っている」と聞き流すのではなくて、全部受けとめて下さいます。「あなたの苦しみや悲しみは全部知っている。あなたの呻くような嘆きを私は全部知っている。泣きたい時には泣きなさい。叫びたい時には叫びなさい。全部私が受けとめよう!」と言って下さるのです。パウロがここで、「感謝を込めて祈りを捧げるように」と書いたのは、このことがあるからでしょう。本当はそうやって祈れること自体が感謝なのです。思いの丈を全て打ち明けるような祈りを、あるいは整わない、声に出せない、呻きに似たような祈りさえも、神様は受けとめて下さいます。このことを確信し、このことの感謝をもって祈るように、とパウロは勧めたのでした。

 けれどもパウロは、「そのようにしたら、願い事は全部かなう」とは言いませんでした。7節のところでパウロは、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と言ったのです。「大きいことであっても、小さいことであっても、全部神様に委ね、感謝をもって祈り求めるならば、あらゆる人間的な考えにまさる神様からの不思議な平安が、私たちを思い煩いから守ってくれるだろう!」これがパウロの確信でした。私たちもこのパウロのように、全てを神様に打ち明ける祈りを通して、この豊かな恵みにあずかりたいと思います。

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