喜びに生きる秘訣
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- 説教
- 吉田謙 牧師
10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
フィリピの信徒への手紙 4章10節-13節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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パウロは、今日の箇所から、その献金に対する感謝を述べ始めています。パウロの手紙の文面からすると、どうやらフィリピ教会からの献金がしばらく滞っていたようです。当時の牢獄の食事は、非常に貧素で、差し入れがなければ生き延びることが出来なかった、と言います。ですから、献金が滞るというのは、命の危険を意味していたのです。けれども、パウロには、あるゆとりがありました。パウロは、11節のところで、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と言っています。そして、13節のところに、その秘訣が語られているのです。13節。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」
この「すべてが可能です」というのは、イエス様のお陰で何をやっても思い通りになります、ということではありません。貧しく暮らすことも、空腹になることもあるのです。祈ったならば、必ず貧しさを抜け出すことが出来る、ということを言っているのではありません。そうではなくて、その貧しさや空腹の中でも、本当に満足することが出来るのです。辛いけれど、我慢し、仕方がないと諦めて生きるのではなくて、その環境の中で、その時その時を喜んで満ち足りて生きることが出来る。それがここでパウロが言う「すべてのことが可能です」という言葉の中心的な意味です。勿論、神様は、私たちの祈りに答えて下さり、ある時には不可能なことを成し遂げて下さる時もあります。けれども、その逆に、私たちがどんなに願っても、神様はその願い通りになさらない時もある。これは神様の主権に属することですから、私たちがとやかく言うことは出来ません。けれども、確かなことが一つだけあるのです。それは、私たちの願いを聞いて下さる時も、聞いて下さらない時も、神様は私たちのことを愛して愛して止まない、ということです。そしてその愛の神様が私たちに力を与え、あらゆる境遇の中で満足できるように助け導き、また私たちがそれぞれ置かれている場所で喜びに生きることが出来るように助け導いて下さる。このことにおいて、イエス・キリストは、すべてのことを可能にして下さる、とパウロは言うのです。
しかしこれは、クリスチャンであれば、自動的にそうなる、ということではありません。クリスチャンであっても、目に見える現実の厳しさに圧倒され、心揺さぶられることがあるのです。また様々な誘惑に翻弄され、すぐに右往左往してしまうことがあります。少しでも辛いことが起こると、心が乱れ、不安になり、嘆き叫ぶことがある。また一方で、物事が順調に進むとすぐに調子に乗ってしまい、自分の功績を誇り、すぐに神様への感謝を忘れてしまうのです。このように私たちは、本当に情けない程に弱く、罪深いのです。
けれども、今日の箇所には、そういう私たちがしっかりと聞くべき御言葉があります。それは11節の後半です。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」
「境遇に満足すること」というのは、努力や訓練によって達成するものではありません。わたしを強めてくださる方のお陰で可能になるのだ、と先程は教えられました。けれども、それは、急に可能になることではなくて、「習い覚えること」なのだと、パウロは言うのです。
この「習い覚える」という言葉は、「覚え知る」「経験する」という意味の言葉です。つまりパウロは、自分の置かれた境遇に満足することを、実際の経験の中で習い覚え、少しずつ身につけていったのです。
パウロは、実際に貧しい中で、また悩み苦しむ中で、あるいは命の危険に瀕している中で、それでもキリストによって満たされていることを確かに経験してきたのです。空腹の時や不足している時にも、キリストによって満たされていることを何度も経験してきました。あるいは豊かな時や満腹している時、物が有り余っている時にも、それらのものに依り頼まずに、キリストによって満たされていることを、これまでパウロは繰り返し経験してきたのです。そういう恵みの体験の中で、パウロは自分の置かれた境遇に満足する生き方を少しずつ身につけることが出来たのでした。
主イエス・キリストを信じる者の内に、イエス様はいつも恵みを示して下さいます。辛いことが次から次へと起こってくる時に、そのことばかりを見つめていると、不安ばかりが募ってきます。けれども、そういう時にこそ、私たちは、祈りを通して、自分の思いをイエス様に正直に打ち明けたらよいのです。また聖書を読むことを通して、自分に対するイエス様の語りかけに素直に耳を傾けるのです。そうやってイエス様との交わりを深め、そのご人格に触れていくならば、そこにイエス様は力をもって働いて下さいます。私たちのために命を捨てて下さったほどに、私たちを愛し抜いて下さった、あの十字架のイエス・キリストが、昔、十字架の時に愛して下さった、という思い出話ではなくて、復活したお方として、今、私たちを愛して下さるのです。今も生きて、死を打ち破るほどの復活の力を、今、私たちに届けて下さいます。本当に深い十字架の恵みで私たちを、今、生きたお方として愛して下さるのです。こうして私たちも、祈り、御言葉に耳を傾ける時に、今、目の前にあるイエス様の恵みに気づかされ、少しずつ自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えていくのではないでしょうか。