日曜朝の礼拝「系図が語る福音」

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系図が語る福音

日付
説教
吉田謙 牧師
1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
マタイによる福音書 1章1-17節

 今日の箇所には、アブラハムから始まり、イエス・キリストに至るまでのイスラエルの歴史、系図が記されています。この系図に登場する人物を見てみると、決して立派な人たちばかりではないことが分かります。汚れていると見なされていた遊女や異邦人、また偶像礼拝に陥り、没落した人々もいました。また立派な人とみられている人であっても、決して完璧な人生ではありませんでした。この系図は、それを決してうやむやにはしていないのです。例えば、6節後半には、ダビデ王が自分の部下であったウリヤの妻によって息子ソロモンを得たことが記されています。部下の妻が水浴びをしているのを見て、彼女を欲しくなったダビデ王は、その部下ウリヤを必ず戦死するような最前線に送るよう手配しました。そして、ダビデ王は、やもめとなったその部下の妻を、まるで憐れむかのように、自分の妻として迎え入れたのでした。こうしてダビデは、無理矢理合法化された不倫によって、その息子ソロモンを得たのです。これは偉大な王ダビデの最大の汚点とも言えるでしょう。この系図は、ダビデのこの汚点を決して曖昧にはしません。ここには、人間の罪と悲惨を乗り越えて、必ずや約束を実現して下さる神様の真実と愛がよく現れているのです。

 私が大好きな御言葉の一つにイザヤ書43章4節の御言葉があります。こういう御言葉です。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛している。」

 イスラエルの人たちは、自分たちこそが神様に選ばれた「神の民」であるという誇りをもっていました。そして、それに見あうような黄金時代も確かにあったのです。イスラエルは、ダビデ・ソロモンという王様の時代には、絢爛豪華な宮殿に神殿、立派な町、様々な芸術作品、世界に誇る文化をもっていました。それは、あのシェバの女王がイスラエルを来訪した際に、その富と知恵の素晴らしさに感動し、圧倒された、と言われているほどです。ところが、このイザヤ書が書かれた頃のイスラエルは、バビロニア帝国に攻め込まれ、立派な神殿は破壊されて、エルサレムの町は瓦礫の山と化し、王様も含めて、ほとんどの人々がバビロニア帝国へ奴隷として連れて行かれてしまったのです。そしてバビロニアでの長い長い補囚の生活が始まりました。人々は、もうこんな落ちぶれた姿では神様から見捨てられてしまったのではないか、生きる価値など無いのではないか、と諦めかけていたのです。ソロモン王の時代ならば、自分たちがユダヤ人であることを誇ることも出来たでしょう。けれども、全てを失った今、もう帰る国さえもない。そして今、外国の奴隷として恥辱を味わっている。もう彼らのプライドはズタズタであります。しかし、その時に、この御言葉が語られました。「私の目にあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛している。」と。つまり、「あなたには、あの黄金時代と少しも変わらない価値がある。絶大な価値がある。あなたの値打ちは寸分たりとも失われていない!」このように神様は、この落ちぶれた、どん底のイスラエルに対して語られたのです。私は、このマタイが書き記した系図を一つ一つ辿っていく中で、このイザヤ書の御言葉を思い起こしました。この系図も、結局は私たちに同じことを語りかけているのではないかと思います。

 パウロは、このことをこのように語っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」ガラテヤの信徒への手紙3章26節以下の御言葉です。たとえ外国人であっても、女性であっても、どんなに罪深い人間であっても、神様の救いの恵みは、それを乗り越え、突き抜けて、そこまで及んでいく恵みなのだ、これが私たちがこの系図から教えられる「良き知らせ」「福音」なのです。

ある時、イエス様は言われました。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ルカによる福音書19章10節の御言葉です。私たちの社会は、自分と考えが違う人や身分が違う人を、追い出したり、壁を作ったりしながら、できるだけ関係を持たないようにしているのではないかと思います。しかし、イエス様は、すべての人を愛し、すべての人に救いを提供するために、人間が作る壁をことごとく打ち砕いていかれました。それは男と女という壁であり、ユダヤ人と外国人の間にある壁であり、社会的に正しいと見られている人と、軽蔑されている人との壁でした。聖書は、教えています。神様の目には、すべての人は神様が求める基準に達し得ない罪人なのだ、と。けれども、同時にイエス様の愛、イエス様が私たちに与える救いには、男と女の区別も、ユダヤ人と外国人の区別も、奴隷と自由人の区別もありません。キリストにあっては、人間はみな一つなのです。イエス様がお生まれになるまでの系図が、どれほど罪と恥辱に満ちていたとしても、神様の私たちに対する愛は、決して変わることがありません。そして、たとえどんな人であっても、このイエス様を信じ、救われることを、神様は切に願っておられます。そのことを、この系図は明確に教えてくれているのではないでしょうか。

 今、私たちを取り巻く環境は、決して安心できるものではありません。戦争や災害、物価の高騰、温暖化の問題など、目の前にある現実を見つめる時に、これからいったいどうなってしまうのだろうかと、不安にさいなまれることがあるのかもしれません。けれども、この世界は、神様が独り子を犠牲にしてまでも救いたいと願われた愛すべき世界です。事実、神様は、この系図に示されているように、繁栄の時代だけではなくて、没落の時代も、暗黒の時代も、絶えず、この世界を憐れみ、導き続けてこられました。神様は、人間の不信仰や罪や汚(けが)れを乗り越えて、約束通りに、御子イエス・キリストを、この暗闇の世界に遣わして下さったのです。そうであるならば、私たちは何を心配する必要があるでしょうか。必ずや神様が、その救いの御業を完成へと導いて下さるに違いありません。神様は真実なお方です。約束なさったことは必ず果たして下さいます。私たちは、この希望から全ての事柄を始めていきたいと思います。

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