日曜朝の礼拝「真の王 ナザレ人イエス」

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真の王 ナザレ人イエス

日付
説教
吉田謙 牧師
23 『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
マタイによる福音書 2章13節-23節

 旧約聖書を見ると、「彼はナザレの人と呼ばれる」という言葉が、そのままの形で、預言者の口を通して語られたことはありません。これは「彼はナザレの人と呼ばれる」という事柄自体が意味していることが旧約聖書の成就なのだ、ということでしょう。では「ナザレの人と呼ばれる」とは、いったいどういうことでしょうか。

 ナザレという町が属するガリラヤ地方は、ユダヤの国の中でも、一番北の端に位置する場所であり、異邦人たちの影響を色濃く受けている地域でした。そのために旧約聖書では、「異邦人のガリラヤ」と蔑まれ、ユダヤ人たちからは大変に忌み嫌われていたのです。ナザレの町は、そのガリラヤ地方の中でも、名前も知られていない小さな小さな町でした。ヨハネによる福音書には、イエス様に対して、「ナザレから何の良いものが出るだろうか」とつぶやいた人がいた、と言われているほどです。マタイは、このようにしてイエス様がナザレ人と呼ばれるようになったこと、つまり、イエス様が当時のユダヤ人たちから軽蔑の思いをもってさげすまれていた町で育ち、生活するようになったこと自体、既に旧約の預言者たちによって示されていたことであり、そこには神様の深い計らいがあった、と言いたいのです。

 旧約聖書には、来るべき救い主が人々から軽蔑されるという記事が沢山記されています。その中でも、最も有名なのは、イザヤ書53章でありましょう。このイザヤ書53章を読むと、イエス・キリストの苦難のお姿が、まるで十字架の足下に座り、それを描き取った人の言葉であるかのように語られていることに気づかされます。しかし、この御言葉は、イエス様が地上においでになる六百年も前に既に記されていた預言の言葉です。イエス様は将に、この苦難のしもべとして、この世にお生まれになりました。数百年間、ずっと待ち続けてきた救い主が、ようやくお出でになったのです。それなのに、人々はどうしたでしょうか。「ナザレ人イエス」と呼んで蔑んだのです。「こんなうだつのあがらない姿で現れるお方では、喜んで私たちの救い主であるとは言えない!」とイエス様を捨てたのでした。私たちも同じです。私たちもかつてはイエス様に背いて歩んでいました。イエス様を知ってからも、思いと言葉と行いにおいて、簡単にイエス様に背き、悲しませてしまいます。イエス様は、そんな私たちの背きのため、咎のため、罪のために死んで下さいました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです!」と執り成し祈りながら、十字架の上で死んで下さったのです。人々の偏見、中傷、誤解、裏切り、そういった私たちの罪と咎を全部その身に引き受けながら、神の怒りを一手に引き受けて下さった傷だらけの救い主、これが私たちの救い主イエス・キリストなのです。

 マタイによる福音書は、イエス・キリストこそ真の王様であることを繰り返し語り続けている書物です。それは、この福音書の書き出しのところからそうでした。マタイは、1章1節のところで、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とこの福音書を書き始めていたのです。イエス・キリストは、あの有名なダビデ王の子孫として誕生した真の王なのだ、とマタイは最初から語っていたのでした。また、前回学んだところでは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と、東の国の占星術の学者たちがイエス様を拝みにやってきた物語が記されていました。そして、今日の箇所では、その王様がどのようなお方であるかが、旧約聖書を引用しながら詳しく語られていたのです。まずこの王様は、罪人である私たちにかがみ込んで寄り添って下さるお方であり、罪の奴隷から解放して下さるお方でした。また、この王様は涙をぬぐってくださるお方であり、嘆きを喜びに変えて下さるお方でした。また最後に、この王様は、人々から軽蔑され、罵倒され、傷を負い、裏切られて、ついには人々の罪と咎を全部背負って十字架の上で死んでいく、そういう苦難のしもべであった、と言うのです。

 「このような旧約聖書の時代から約束されてきた真の王様をわたしは必ず与える!」これが神様の並々ならぬ決意でした。そして、この決意が具現化した出来事こそ、他でもない、あのイエス・キリストの誕生だったのです。この神様の決意とご計画を妨げるものは何一つありません。たとえ、それが人の目には不可能に思えるような出来事であっても、ヘロデ王のような残虐きわまりない狂気であっても、それを突き抜けて、神様の決意とご計画は必ず成就するのです。マタイは、今日の箇所で、旧約聖書を引用しながら、預言者たちを通して言われていたことが、こうして実現した、と繰り返し語ることによって、この神様の決意の揺るぎなさを、私たちに伝えようとしているのです。

 私たちは、周りの状況がどうであろうと、もう右往左往する必要はありません。十字架の愛で私たちを愛し抜いて下さるイエス様が私たちの王様だからです。そして嬉しいことに、これは神様の揺るぎない決意なのだ、とマタイは伝えてくれています。どんなことが起ころうと、この神様の決意は決して揺らぐことがありません。これは本当に安心なことではないかと思います。私たちの人生には、様々な苦しみや悲しみがあります。時には八方ふさがりの中で、どうすることもできなくて、信仰が揺らいでしまうこともある。でも大丈夫です。十字架の死を突き抜けて、死に勝利なさった王なるイエス様が、どんな暗闇の中にあっても私たちと共にいて、私たちと共に戦って下さいます。「勇気を出しなさい。たとえあなたが揺らいでも、私は決して揺らぐことがない。今、あなたの信仰を揺さぶっているその悪の力にも、私は既に勝利している。安心しなさい。私が守る。私が共にいる。どんなことがあろうと、私は決してあなたを見捨てない。私は永遠にあなたの王なのだ!」と約束して下さるのです。そうであるならば、たとえ私たちの身にどんな苦難が襲ってこようとも、それらはもはや決定的なことではありません。私たちは、どんな苦難の中にあっても、王なるイエス様の御手の中で守られながら、平安の内に歩むことが出来るのです。

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