日曜朝の礼拝「悔い改めよ」

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悔い改めよ

日付
説教
吉田謙 牧師
1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。・・・ 7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。・・・ 8 「悔い改めにふさわしい実を結べ。9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」
マタイによる福音書 3章1節-10節

 洗礼者ヨハネは、荒れ野で民衆に向かって「悔い改めよ。天の国は近づいた」と厳しく悔い改めを迫りました。「悔い改め」という言葉は、通常、世間一般では、悪人が今までの生き方をやめて、まじめに生き始めた時によく使われると思います。「私は悔い改めました。もう悪いことはしません。足を洗います」などと言う時によく使うのです。けれども、聖書が言う「悔い改め」という言葉は、もっとシンプルな意味を持っています。それは「人生の向きを変える」「方向転換をする」ということです。自分の生き方、生活のすべてを含めて、自分自身が神様の方へと向き直ること、これが聖書の言う「悔い改め」なのです。

 この洗礼者ヨハネの呼びかけに応え、大勢の人々が洗礼者ヨハネのもとに集まり、自らの罪を告白し、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた、と言われています。その中には、民の指導者であるファリサイ派やサドカイ派の人たちもいました。ところが洗礼者ヨハネは、彼らに向かって、「蝮の子らよ、悔い改めの実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな!」と厳しく叱責しました。何故でしょうか。それは、彼らの信仰を支えていたエリート意識、誇りと自負心を打ち砕かなければならなかったからです。ユダヤ人たちは皆、自分たちは選ばれた神の民なのだから、神様は必ず我々を救って下さるに違いない、という選民意識、エリート意識を強烈に持っていました。ファリサイ派の人たちは、一所懸命まじめに生きた人たちだっただけに、余計にこのエリート意識が強かったのではないかと思います。「自分たちは他のいい加減な信仰者たちとは違う。自分たちこそが、本当のアブラハムの子なのだ!」と彼らは自負していたのです。またサドカイ派の人たちは、祭司や貴族階級の人たちでしたから、血筋的にも「アブラハムの子である」という誇りがあったでしょうし、また自分たちこそ、この国を支えているのだ、という自負心もあったと思います。実はこのような人間的な誇りや自負心、エリート意識こそが、悔い改めの心を駄目にしてしまうのです。だからこそ洗礼者ヨハネは、宗教的指導者たちに対して、このように厳しく迫ったのでした。

 この洗礼者ヨハネの厳しいメッセージは、確かに直接的にはファリサイ派やサドカイ派の人たちに向けられました。けれども、これは決して他人事ではありません。現にマタイは、この洗礼者ヨハネのメッセージの厳しさを、この福音書を通して、まず教会の人々に伝えようとしました。つまり、私たちに伝えようとしたのです。何故でしょうか。それは、キリストの教会がファリサイ派的なエリート意識に染まりやすいからです。自分たちは大丈夫。しっかりとやっている。礼拝もきちんと捧げているし、奉仕も伝道もしている。もう大丈夫!そうやって安心しきって歩んでいる内に、だんだんと罪の意識がぼやけてしまい、悔い改めの心が失われてしまうのです。

 どんなに大きな罪を犯したとしても、イエス・キリストを信じるならば罪赦される。クリスチャンにとって取り返しのつかない罪はない。罪を犯しても何度でも赦され、立ち上がることが出来る。これは本当に大きな平安ではないかと思います。何もこの平安自体が悪いわけではありません。むしろ、これはクリスチャンにとって本当に大きな恵みでありましょう。この厳しい言葉は、そういうクリスチャンの平安そのものに向けられているのではありません。そうではなくて、8節にはこう言われています。「悔い改めにふさわしい実を結べ!」と。つまり、この厳しい言葉は、平安にあぐらをかいて、いっこうに生活を改めようとはせず、悔い改めに相応しい実を結んでいない私たちの甘ったれた生き方に対して、「それでは駄目だ!」と警告を発しているのです。

 宗教改革者カルヴァンは、私たちの信仰は、水道管のようなものだ、と言いました。水道管というのは、それ自体は空っぽなのです。もしそこに何かが詰まっていたならば、大切な水は私たちのもとにまで流れてきません。信仰もこの水道管と同じなのだ、とカルヴァンは言いました。信仰も空っぽでいいのです。空っぽだと言って嘆く必要はありません。むしろ信仰は空っぽでなければならない。大切なのは、そこを通って来られるキリストです。今日の御言葉で言うならば「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というのは、「私たちの心の中の水道管を空っぽにせよ」ということでありましょう。

 今の時代は、イエス様が歩まれた時代とよく似ています。世の中が悪い、あの国、この国が悪い、政治家が悪い、教育が悪い、いや教会が悪い、あの人、この人が悪い、いくらだってその責任を転嫁することが出来ます。世の中がよじれ、曲がっていれば曲がっているほど、自分たちと世の中との差が、目についてくるのです。伝道に打ち込めば打ち込むほど、人の愚かさが目についてきます。愛の奉仕に生きればいきるほど、愛の奉仕に生きていない人の怠慢を裁きたくなる。世の中のよじれやほころびは、私たちにはよく分かるのです。けれども、自分の中の信仰のよじれには全く気づいていない。「自分はこんなよじれた世界には決して染まらない。信仰をもっていないあの人とは違うのだ!」そうやって、私たちの信仰は、うぬぼれや傲慢や甘えやプライドによって、どんどん膨れ上がっていくのです。そういう信仰は、詰まっている水道管と同じです。そういう水道管は決して水が流れてきません。そういう信仰はイエス・キリストを閉め出してしまうのです。

 今、私たちが生きている時代が暗い時代であるからこそ、今、私たち一人一人の小さな変化が求められているのではないでしょうか。そのためには、あの人この人が悪いという責任転嫁はもう止(や)めて、まず私たち自身が本気で悔い改めなければなりません。自分を正しい者とする傲慢さ、自分が歩んでいる方向を何としてでも変えたくないと思う頑なさ、必死にしがみついて手放そうとしないプライド、つまらないこだわり、それらは全部かなぐり捨てて、思い切って神様の方へと向き直らなければならない。神様のもとへと立ち帰らなければならないのです。

「悔い改めよ。天の国は近づいた!」「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ!」あの人、この人ではなくて、まず私たち自身が本気で悔い改めなければなりません。これが、この洗礼者ヨハネのメッセージを通して、マタイが私たちに伝えたかったことなのです。

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