日曜朝の礼拝「主イエスの洗礼」

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主イエスの洗礼

日付
説教
吉田謙 牧師
16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
マタイによる福音書 3章11節-17節

イエス様は、洗礼を受けるために洗礼者ヨハネのもとに集まってきた民衆の列の中に紛れておられました。民衆に紛れ、民衆と同じように洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのです。これが公の活動を開始なさる前に、イエス様が真っ先になさったことでした。イエス様が人々に洗礼を授けられたのではなくて、民衆に紛れて、全く人々と同じように洗礼を受けられたのです。

まずイエス様が洗礼を受けられた時に、「天がイエスに向かって開いた」と言われています。この「天が開いた」という言葉は、聖書においては、神様が姿を現される時に用いられる決まり文句です。そういう言葉がここに用いられていることからも、このイエス様の受洗という出来事が、いかに重要な出来事であったかがよく分かると思います。現に、その後(あと)すぐにイエス様に神の霊が降(くだ)りました。そもそも神の霊が降(くだ)るというのは、イエス様が、神様から特別なる使命、働きへと任命された、ということの証しでしょう。しかも、その「神の霊が鳩のように御自分の上に降(くだ)って来るのを御覧になった」と言われているのです。実はこの鳩という動物は、旧約聖書を読む人々にとって、忘れられないある物語を思い起こさせました。それは旧約聖書の創世記に登場するノアに関する物語です。ノアの物語の中で神様は、洪水をもって地上に厳しい裁きを実現なさいました。その際に、この裁きから免れたノアが、長い洪水の期間が終わったことを確かめるために用いた動物こそ、他でもないこの「鳩」だったのです。つまり、このノアの物語で「鳩」は、神様の裁きが終わり、平和を告げる動物として登場していたのでした。その鳩のイメージを持った神の霊が、この時、イエス様の上に降(くだ)ったのです。これは即ち、イエス様に与えられた使命とは、この鳩が表す「平和」に関わるものであった、ということでしょう。もっと正確に言うならば、神様と人間との間に生じた断絶を修復し、神様と人間との間に平和を実現させること、これこそがイエス様の使命だったのです。

 また「これはわたしの愛する子」という天からの呼びかけの言葉は、詩編2編7節からの引用になっています。この詩編2編は、主なる神様が、この世に救い主を遣わし、王として即位させ、その救い主に向かって「お前はわたしの子だ!」と宣言して下さることを謳っている詩編です。その詩編がここに引用されているということは、イエス様が公に活動を開始なさるにあたって、父なる神様が「この主イエスこそ、王なる救い主、私の愛する独り子なのだ!」と宣言なさった、と言うことでしょう。

イエス様の歩みは、私たち罪人の列に加わり、私たちの先頭を切って歩んで下さる歩みでした。「私の背中を見ながら、私の後についてきなさい!」と招いて下さる歩みだったのです。そのようにして私たちの先頭を切って、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたイエス様を、父なる神様は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んで下さいました。これは即ち、イエス様の招きに応えて洗礼を受けた私たちにも、父なる神様は同じようにして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んで下さる、ということでしょう。

 天地万物を創り、今も、その全てを統べ治めておられる全能の神様が、他でもないこの私のことを「わたしの愛する子」と呼んで下さり、我が子として私のことを愛して下さるのです。これは本当に嬉しいことですね。しかし、洗礼を受けたならば、いつも「わたしの愛する子よ」という神様からの呼びかけが聞こえ、バラ色の人生が待っているのかと言うと、決してそうではありません。依然として生活苦があり、介護の労苦があり、病気との戦いがあり、人間関係のこじれに悩むことがある、このように生活自体は以前となんら変わることがないのです。それどころか、時には「何故ですか?!」と叫びたくなるような人生の嵐に遭遇することもあります。そんな中で私たちは、神様を信頼し切れず、藻掻き苦しみ、また性懲りも無く失敗を繰り返してしまうのです。けれども、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた私たちは、どんなに落ちぶれても、神の子なのです。たとえ私たちが気づいていなくても、そこにイエス様は共にいて下さり、共に苦しみ、共に涙し、共に戦って下さいます。「あなたの痛みは知っている。苦しみは知っている。悲しみは知っている。あなたが今くじけそうになっている弱さは知っている。大丈夫。私があなたの弱さや破れや失敗、罪や背きを全部十字架の上で担った。悲しみや苦しみや痛みの背後にある神の怒りと呪いを全部私が担った。もうあなたには神の怒りと呪いは向けられない。あなたも立ち直れる。安心して行きなさい!」このように主は優しい声で傷ついた私たちの心に語りかけ、折れ曲がった私たちを助け起こし、絶望し切った心の暗闇に望みの火を灯して下さるのです。なんという幸いでしょうか。

 神の独り子であるイエス・キリストがへりくだって、私たち罪人の列に加わって下さいました。そして私たちがなすべきことを私たちに代わって全て成し遂げて下さったのです。またイエス・キリストは、本来、私たちが受けるべき神様の怒りと呪いを、あの十字架の上で全部その身に引き受け、身代わりの死を遂げて下さいました。そうやって主は私たちと神様との敵対関係を打ち破り、平和を打ち立てて下さったのです。どんなことがあろうと、このイエス様が打ち立てて下さった私たちと神様との平和は取り消されることがありません。このことさえ知っていれば、もう大丈夫です。天地万物を造り、今もその全てを統べ治めておられる天の父なる神様が、どんな時にも私たちの味方であり、私たちのことを「わたしの愛する子よ」と呼びかけて下さるのですから。

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