荒れ野の誘惑
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- 説教
- 吉田謙 牧師
8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』と書いてある。」
マタイによる福音書 4章1節-11節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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先週学びましたように、イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、私たち罪人の列に加わって下さいました。人間がなすべき正しいことを全て成し遂げる決意をもって歩み出して下さったのです。その直後に経験されたのが、この「荒れ野の誘惑」の出来事でした。つまり、イエス様は私たち罪人の列に加わり、私たちが経験するはずの誘惑をつぶさに味わって下さったのです。そして、そこでイエス様は、本来、私たちがなすべき正しいことを、私たち罪人の先頭に立って成し遂げて下さったのでした。
この説教要約では、三つ目の誘惑に注目したいと思います。ここでイエス様が引用しておられるのは、申命記6章13節と14節の御言葉です。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。」
イエス様が引用なさった御言葉は、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕えよ」という13節の御言葉です。しかし、それに続く14節の御言葉は、偶像崇拝を禁止する命令になっています。
イスラエルの民は、荒れ野の旅路の中で、モーセが十戒を神様からいただくという大事な時に、帰りが遅いモーセを待ちわびて、やがて不安になり、ついに金の子牛を作って拝むという偶像崇拝の罪を犯してしまいました。またイスラエル王国が建てられた後も、あるいは王国が分裂した後も、イスラエルの民は、繰り返し周辺諸国の神々を拝むという偶像崇拝の罪を重ねてしまったのです。この三つ目の悪魔の誘惑は、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら」という9節の御言葉からも分かるように、明らかに偶像崇拝への誘惑です。イエス様は、アダム以来続く、自分を神とし、真(まこと)の神様ではないものを神々として拝むという偶像崇拝の罪の列の中に身を置きながら、しかし、そこから、ただ主なる神様のみを拝み、ただ主なる神様にのみ仕えることこそが、神様に造られた人間の本来あるべき姿なのだ、ときっぱりと答えられたのでした。
偶像崇拝への誘惑は、「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、それをみんな与えよう」と言われているように、この世の権威と栄光を通して行われました。権力や名誉や栄光への欲望というのは、人間のもつ基本的な欲求の一つです。一流大学入学を目指す受験生も、出世を目指すサラリーマンも、裕福な生活を求め、人の評判を気にする人々も、みんなその根底には権力、名誉、栄光への欲望があるのです。食欲や性欲がそうであるように、そういう人間の心の奥底にある欲望そのものが罪なのではありません。そうではなくて、悪魔に膝をかがめてでも、それらを得たいという思いが罪なのです。誘惑はそこに潜んでいました。
私たちは、良い学校に行きたい、やり甲斐のある仕事につきたい、快適な生活をしたい、名誉を得たい、と願いながら、この世の栄光を求めて、一所懸命、努力します。何もそのこと自体が悪いわけではありません。しかし、それがまるで生きる目的であるかのように、それにしがみついてしまう時に、やがてそれ自体が自分の神になってしまいます。そうやって私たちは知らず知らずの内に偶像崇拝に陥ってしまうのです。
イエス様は私たちの先頭に立ち、まずこの偶像崇拝の過ちをきっぱりと断ち切り、真(まこと)の神様のみに仕え、真(まこと)の神様のみを礼拝するという「真(まこと)の平安の道」を勝ち取って下さったのです。
こうしてイエス様は、私たち罪人の代表者として、悪魔の誘惑にことごとく勝利して下さいました。つまり、このイエス様の勝利は、私たち一人一人の勝利でもあるのです。とはいえ、この地上の歩みにおいては、まだ悪魔の誘惑が全く無くなったわけではありません。それどころか、いよいよその誘惑は激しさを増しているのではないかと思います。けれども、イエス様はある時、こう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)。「この世にある限り、あなた方には、なお様々な苦難があり、様々な誘惑があることだろう。時には信仰が崩れそうになることもあるのかもしれない。しかし、勇気を出しなさい。私はあなた方に代わって、それら全てに打ち勝った。恐れに打ち勝ち、サタンの誘惑に打ち勝ち、罪と死の力に打ち勝った。あなたが頑張るのではない。私が支える。私が守る。私が共にいる。どんなことがあろうと、私は決してあなたを見捨てない!」このように主は私たちを励まして下さるのです。要するに私たちの戦いは、勝利が約束された戦いであり、私たちを霊的に成長させるための訓練の戦いなのです。ですから私たちは、決して怖じ気づくことなく、この悪魔の誘惑に果敢に立ち向かっていかなければなりません。
最後に、今日、しっかりと覚えたいことは、このイエス様の悪魔の誘惑に対する勝利は、私たちの模範でもあった、ということです。イエス様の勝利の秘訣とは、いったい何だったでしょうか。今日学びましたように、イエス様は神の子としての超自然的な力をもって、悪魔の誘惑に打ち勝たれたのではありません。そうではなくて御言葉をもって誘惑に打ち勝たれたのです。これは、イエス様にしか出来ないことではなくて、私たちにも出来ることなのです。イエス様は「私のようにやってみなさい。私に倣い、悪魔に向かって果敢に立ち向かうように!」と私たちを招いて下さるのです。
悪魔との戦いの中で、命がけで御言葉に踏みとどまられたイエス・キリストのお姿は、私たちの良き模範です。この模範は、決して実現不可能なことではありません。けれども同時に、一足飛びに真似ることの出来る模範でもない。日々御言葉に親しみ、週毎の御言葉の解き明かしに熱心に耳を傾け、忠実に祈る、という地道な信仰生活の中で、それは少しずつ養われていくのではないかと思います。もし今、あなたが八方ふさがりの中で、どうすることもできなくて、サタンの力に誘われ、絶望しかけているならば、この礼拝の中で、もう一度、神の恵みの言葉で心を満たしていただきましょう。大丈夫なのです。私たちが、この礼拝から送り出され、またこの礼拝へと戻って来るという、極々ありきたりの礼拝生活を重んじているならば、必ずや私たちは聖霊によって導かれ、このイエス様の模範に少しずつ近づいていくことが出来るはずです。