日曜朝の礼拝「主イエスの伝道開始」

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主イエスの伝道開始

日付
説教
吉田謙 牧師
14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、16 暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
マタイによる福音書 4章12節-17節

イエス様は、公の伝道を開始なさる場所として、ユダヤ教の中心地であるエルサレムを選ばれたのではなくて、それとは全く対照的に、辺境の地、ガリラヤを選ばれました。そしてマタイは、「それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と語っています。そして、15節以下のところで、そのイザヤ書の言葉が引用されているのです。「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 これは旧約聖書イザヤ書8章23節以下の御言葉の引用です。「ゼブルンの地とナフタリの地」、「湖沿いの道」、「ヨルダン川のかなたの地」、「異邦人のガリラヤ」、これらは全てガリラヤ地方を別の言葉で言い換えた言葉です。このガリラヤ地方は、ユダヤの一番北の端の国境沿いに位置しています。国境沿いの地域ですから、外国の軍隊が攻め込んできた時には、真っ先に占領下におかれてしまいます。実際にこのガリラヤ地方は、歴史の中で、アッシリアやバビロン、ペルシャ、マケドニア、エジプト、シリアという具合に、様々な異民族の支配下に置かれました。そのために異民族の血が混ざり、文化が混ざり、神礼拝さえも他宗教と混ざり合ってしまったのです。民族の血の純血を重んじていたユダヤ人たちにとって、そういうガリラヤは、民族の恥と揶揄されていました。到底、自分たちと同じ民族と認めるわけにはいかない。そういうわけでユダヤ人たちは、彼らのことを「異邦人のガリラヤ」と蔑み、「ガリラヤの人たちは、異邦人と同様に、神様から見捨てられ、救いとは無縁の存在になってしまった!」と軽蔑していたのです。しかし、預言者イザヤは、この暗闇の中に住んでいた「異邦人のガリラヤ」の上に「大きな光」が昇り、「光」が射し込んだ、と語りました。人々が光の許に来たのではありません。一生懸命、彼らが光を求めたわけでもありません。彼らは、自分たちにはもう救いがない、神様から見捨てられてしまった、と諦めていたのです。ところが、そういう彼らのもとに神様からの救いの光が差し込んだ、とイザヤは預言したのです。そして、このイザヤの預言は、イエス・キリストのガリラヤ伝道開始によって成就したのだ、とマタイは言うのです。

 “そのときから”イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められました。これは、以前に洗礼者ヨハネが語っていた言葉と全く同じです。その時にもお話ししましたように、「悔い改め」というのは、自分の生き方、生活のすべてを含めて、自分自身が神様の方へと向き直る、ということです。また「天の国」という言葉は「神の国」という言葉と同じ意味であり、これは「神様のご支配」、「神様が王様として支配して下さる」ということです。王なる神様が今将に近づいておられる。罪に覆われ、怒りや憎しみ、嘆きや悲しみに満ちたこの世界に、神様が王様として近づいておられる、と言うのです。これは即ち、神様の救いが近づいている、ということでしょう。人々が救いを求めて神様のもとにやって来たのではありません。人々の思いとは全く関係なく、神様の圧倒的な御力によって、神様の救いが人々のもとに近づいているのです。洗礼者ヨハネは、この神様の救いが今将にそこまで近づいているのだから、あなた方は気を引き締めて、神様の方に向き直るように、と人々の心を整えようとしたのでした。イエス様も、この洗礼者ヨハネと同じ言葉をもって、その公の活動を始められました。しかし、洗礼者ヨハネは、言うなれば前座であり、イエス様が真打ちです。待ちに待った真打ちであるイエス様が登場し、いよいよ救いの御業が本格的に始まろうとしているのです。そういう中にあってイエス様は、「あなた方は本気になって神様の方に向き直り、この救いを素直に受けとめるように!」と暗闇の中で死の陰に怯えている人々に向かって呼びかけられたのでした。

 先程の16節には、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と言われていました。光を見るために唯一必要なことは、向き直って光の方を向くことです。それを聖書は「悔い改め」と呼んでいます。「天の国は近づいた!」神様の方から救いをもって私たちに近づいてくださったのです。しかし、暗闇の中から立ち上がり、光の中を生き始めるためには、私たちが決断しなければなりません。太陽が昇っても、自分でカーテンを開けなければ、部屋は明るくならない。どんなに光が照らしても、背を向けたままでは駄目なのです。暗闇に住む民が大きな光を見るためには、その光の方に向き直らなければなりません。これは神様がすることではなくて、私たち人間がすることです。主は言われます。「救いの光が近づいた。悔い改めて、光の方へと向き直りなさい。暗闇はあなたの住む場所ではない!」と。

私は、どんな悩みを抱えている人であっても、教会に来て、このイエス・キリストを信じるようになれば、すべてが解決するのではないかと信じています。決してその人が望むような結果が得られるわけではありません。そうではなくて、イエス・キリストに出会い、その救いに与ったならば、私たちは、イエス・キリストの救いの光の中を歩むことが出来ます。私たちがこれまで歩んで来た道のり、今、置かれている状況、これから私たちが歩んで行こうとしている道を、私たちを、御子を十字架に犠牲にしてまでも愛し抜いてくださる神様の御手の中にあることとして、明るい希望の光のもとで受け取り直すことが出来るのです。その時に、自分を取り巻く状況の色が一変するのではないかと思います。重く暗い景色が、軽く明るい、喜びと希望に満ち溢れた穏やかな景色に変わっていくのです。

 この救いの光は、既に、私たちのもとにちゃんと届けられています。問題は、私たちが、その光の方に、素直になって向き直ることが出来るかどうかです。主は、今、あなたを招いておられます。「悔い改めよ。暗闇から立ち上がり、光の方へと向き直れ!救いの光はもう既にあなたを照らしているから!」と。

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