日曜朝の礼拝「弟子の召命」

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弟子の召命

日付
説教
吉田謙 牧師
19 イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。 20 二人はすぐに網を捨てて従った。・・・22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
マタイによる福音書 4章18節-25節

先週、私たちは、イエス様がいよいよ公の宣教活動を開始なさったという記事を読み進めました。イエス様は、ユダヤ教の中心地であるエルサレムからではなくて、「異邦人のガリラヤ」と人々から蔑まれていた辺境の地ガリラヤ地方から、その公の活動を始められました。マタイは、このイエス様のガリラヤ伝道開始によって、預言者イザヤの言葉が成就したのだ、と語っていたのです。今日の四人の漁師たちを招かれた物語は、このことを受けての物語になっています。つまりイエス様は、旧約の時代から繰り返し預言され、人々から待望され続けてきたメシアとしての権威と力をもって、弟子たちを招かれた、と言うのです。ただ単なる律法の教師が、「弟子になるように」と呼びかけたのとは訳が違います。イエス様は、メシアとしての圧倒的な権威と力をもって、この四人の漁師たちに向かって「わたしについてきなさい」と呼びかけて下さったのです。マタイは、このイエス様の招きに対して、四人の漁師たちが、「すぐに従った」と紹介しています。他の福音書を参照すると、彼らは色んな経緯を経て従う決心をしたことが分かります。しかしマタイは、それらのことを全て省略し、すぐに従った弟子たちの姿を描き出しました。何故でしょうか。それは、まず私たち自身が神様の招きに対して、あれこれと言い訳をし、すぐに従えない者たちだからでしょう。ここには、イエス様に従う者たちの本来あるべき姿が描かれているのです。

 ある有名な神学者が、こうしたイエス様の招きに対する私たちの態度について、このように語っています。「若い者は、主の求めを聞くと、こう言いがちである。ちょっと待って下さい。私はまだ若いのです。決心するには若すぎます。正しい決心をするのには、まだ十分な人生経験を踏んでいないのです、と。中年になるとこう言うのです。主よ。お言葉はよく分かります。しかし、ご覧のように、今私はこの生活に打ち込んでおります。間もなくこの生活から離れるのです。その時、改めて考えます、と。ところが歳をとると、こう言うのです。主よ。私は今からあなたに従うには、あまりに歳をとりすぎました。今更この人生を変えることは出来ません。もっと若かったら別ですが、と。」

 このように私たちは、主がせっかく招いて下さるのに、それをいつも断る言い訳を考えてしまう、と言うのです。これは、残念ながら的確な指摘ではないかと思います。けれども、神様には、そのような言い訳は一切通用しません。私たち自身が、たとえ若すぎると思ったとしても、あるいは今、働き盛りで余裕がないと思ったとしても、あるいは年老いてもう自分には何も出来ないと諦めていたとしても、今この時に主に従うことが求められているのです。弁解することは無意味です。何故ならば、神様はそのような私たちの全ての事情を知り尽くした上で、私たちを招いておられるからです。そうであるならば、たとえ私たちの側に躊躇する事情があったとしても、何も心配する必要はありません。神様が招かれたのですから、全ての心配事はきっと神様が解決して下さるでしょう。

 私も牧師になろうと決心するまでに、どれだけ弁解を試み、もがいたことか。長年、勤めた会社がなかなか退職を許してくれないこと、年齢的にもう遅すぎること、語学が苦手なこと、家族に苦しみを強いることになること等々、どれだけ私は神様に弁解を試みたことでしょう。けれども、神様が召されるということは、そのようなことを全て知り尽くした上で召されることなのです。私はその時、身をもってそのことを体験しました。いくら私が弁解しても、その弁解は確実に一つ一つ崩されていきました。そして、あれよあれよという間に、弁解の余地がないほどまでに、その道が整えられていったのです。本当に鳥肌が立つような経験でした。神様はここぞという時には、人間の想像を遙かに超えるような凄まじい働きをなさいます。私はこの神様の凄まじいまでの御業に圧倒されて、ただただひざまずくしかありませんでした。これは、何も牧師という職務に限ったことではありません。イエス様を信じて歩んでいる者ならば、誰もが経験することではないかと思います。受験や就職、結婚等、人生の岐路に立たされる時に、あるいは様々な問題を抱えて思い悩んでいる時に、私たちは神様の御心を求めずに、自分の思いでその道を選び取ろうとしてしまいます。たとえそれが神様の御心ではないことが分かっていたとしても、私たちは安易な道を選び、必死で神様に弁解を試みるのです。けれども、そのような弁解は神様には決して通用しません。神様は、全てのことを知り尽くされた上で、今、この時に主に従うことを求めておられるのです。

 もう一つ、この物語にはマタイの強い思い入れがあります。今日の物語は、先週学んだ17節の御言葉との関連の中で読まなければなりません。17節にはこう言われていました。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」即ち、今日の物語は、この御言葉を受けての物語なのです。もっと具体的に言うならば、イエス様が語られた『悔い改めよ。天の国は近づいた』というメッセージに対する応答として、弟子たちの「すぐに従った」という姿が描かれているのです。

 「悔い改め」というのは、何度も言いますように、自分の生き方、生活のすべてを含めて、自分自身が神様の方へと向き直る、ということです。そして神様の方へと向き直るというのは、神様が遣わして下さった救い主イエス・キリストに向き直る、イエス・キリストに従うということです。この「わたしについて来なさい」という言葉は、直訳すると「来なさい、私の後ろに」となります。イエス様の後に従い、ついていく、「自分」を見つめることをやめて、向き直ってイエス様を見つめ、イエス様が先立ち、導いて下さるその道を歩んでいくのです。そういう意味では、この「わたしについて来なさい」という言葉は、「悔い改めよ」という言葉の言い換えである、とも言えるでしょう。つまり、「悔い改めよ。天の国は近づいた!」という福音が語られる時に、当然、その応答として悔い改めが起こり、その人は向き直ってイエス様の後について行くことになる、福音にはその力があるのだ、とマタイは伝えようとしているのです。

 私たちが色々と弁解を試み、従うことを先送りにしてしまうのは、この福音が私たちの心にちゃんと根付いていないからでしょう。福音が私たちの心にしっかりと根付いているならば、福音には力がありますから、自然と従うことが出来るはずです。まずは自分自身の心に福音を根付かせるために、週毎の礼拝を重んじ、御言葉に聞き、祈る生活を身につけることから始めたいと思います。

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