3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。マタイによる福音書 5章1節-3節 この「幸いである」という言葉は、「幸福な気持ちを味わっている」という意味の言葉ではありません。自分が幸福な気持ちでいるかどうかが問題なのではなくて、「あなたは神様から祝福されている」というう意味で「幸いだ」と言われているのです。ですから、この言葉は、本来、「幸いである」というよりも、「祝福されている」と翻訳した方がよいような言葉なのです。また、この箇所に使われている「心」という言葉は、通常の「心」という言葉とは違う言葉が使われています。この箇所で使われている言葉は、どちらかと言うと、「心」というよりも、「霊」と翻訳されることの方が多い言葉です。聖書の言う「霊」とは、私たちの人格の中心、心よりももっと深い部分のことを言います。更に「霊」は、神様と関わる部分、神様と交わる部分でもあります。そういう意味を踏まえると、ここで言う「心の貧しい人」というのは、「自分の一番深いところが貧しい人」、「神様との関わりにおいて貧しい人」、「人格の中心が貧しい人」ということになります。また、この箇所で使われている「貧しい」という言葉も、ただの「貧しい」という言葉ではありません。「生活に余裕がなくて苦しい」という貧しさを表わす言葉は、また別にあるのです。ここで用いられている言葉は、「完全に無一物である」ということを言い表わす言葉です。「全く何も持っていない。物乞いをして生きる他はない!」こういう意味の言葉です。つまり、イエス様がここで「幸いだ」と言われたのは、そのように自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きる他はないような徹底的に貧しい人のことを言うのです。しかも、先程、確認したように、この貧しさには「心の」という言葉が付け加えられています。「心において」、即ち「霊において」貧しい人々が幸いなのだ、と言うのです。自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きる他はない、そのことが、人格の中心にあてはめられている。つまり、自分の人格の中心は空っぽで、神様との関係も最悪で、心よりももっと深い自分自身がどん底の状態である、もう自分の中には依り頼むべきものが何一つ無い、誇るべきものが何一つない、ということです。これは、どう考えてみても「幸いな人」とは言えません。このように、このイエス様のお言葉は、私たちには、とうてい同意できるものではないのです。では、何故、イエス様は、そういう「心の貧しい人々が幸いなのだ」と言われたのでしょうか。 イエス様の周りにいた弟子たちや群衆は、決して立派な人たちではありませんでした。どちらかと言うと社会からはみ出していたような人たちばかりです。そもそも、イエス様が主に活動なさったガリラヤ地方という地域は、以前にも学びましたように、ユダヤ民族からも民族の恥として忌み嫌われていた地域でした。またイエス様の噂を聞きつけて他の地域からやってきた人たちも、おそらく自分自身の色んな欠けや罪に苦しみ、自分ではどうにも出来なくて、イエス様の助けを真剣に願ってやってきた人たちではなかったかと思います。つまり、彼らこそ心の貧しい人々だったのです。イエス様はそういう人々に向かって、「心の貧しい人々は、幸いである」と語りかけて下さいました。これは即ち、イエス様が目の前にいる人たちに向かって「あるがままのあなた方が神様に祝福されている」と宣言して下さった、ということでしょう。 イエス様は今、私たちにも語りかけて下さいます。「心の貧しい人々は、幸いである」と。「確かにあなたには醜さもあるし、弱さもある。否定的な考えがあり、希望のない冷たい心がある。確かにあなたには愛が欠けている。私もそのことをちゃんと知っている。けれども、たとえそうであったとしても、神様はあるがままのあなたを愛しておられる。そういうあなたを神様は深い憐れみをもって救って下さるのだ!」このようにイエス様は語りかけて下さるのです。 けれども、イエス様は私たちの貧しい生き方そのものを肯定なさったわけではありません。心が狭く、愛に欠けている私たちの生き方がそのままに認められたわけではない。心の貧しさ、これは言い換えるならば罪でありましょう。罪は罰せられなければなりません。神様は、私たちの罪を激しく怒り、裁き、呪い、罰せられます。けれども、その裁きが終わり、刑罰が終わってみると、そこに一人の人が十字架にかけられて死んでいました。そのお方こそ、私たちの救い主イエス・キリストです。イエス・キリストの死によって、神様の怒りは貫かれました。そして、同時に、そこで私たちの罪が裁かれ、罰せられたのです。もう私たちは裁かれる必要がありません。完全なる赦しが与えられたのです。心の貧しい、自らの中に何らよいものがない。拠り所となる豊かさもない。その貧しさのゆえに常に人を傷つけ、問題を起し、悲惨な事態を生んでしまう。そんな私たちを、主イエス・キリストが背負って下さいました。そして「あなたは幸いである。そんなあなたが神様から祝福されている」「もうあなたは、自分の中に豊かさがないと嘆かなくてもいい。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものが何一つなくても、私はあなたを愛し、あなたを背負い、支えていく。だからあなたは幸いなのだ。安心して生きるように!」とイエス様は自らの命を懸けて宣言して下さったのです。 心の貧しい者たちは、自分の心の中に、拠り所となるものを何一つ持っていません。豊かさがなく、愛がない。度量も狭いのです。そのことを自分でもよく自覚しています。そういう者たちは、もう神様の救いに依り頼む他はないのです。実際にイエス様の周りには、そういう人たちがイエス様を慕って、沢山集まってきました。イエス様はそういう人たちに向かって、「心が貧しく、本当に神の国を必要としているあなた方は幸いである。あなた方はもう既に神の国に生き始めている」と宣言して下さったのです。 私たちに求められているのは、まずこのイエス様が与えて下さった幸いを素直に受け止め、喜んで生きるということです。決して心の貧しい人になることが求められているのではありません。そんな努力をしなくても、もともと私たちは心の貧しい者たちなのですから。 まず私たちは、イエス様が命懸けで打ち立てて下さったこの幸いの中に身を置くことから始めましょう。その時に、私たちの貧しい心は、私たちが頑張るのではなくて、イエス様によって次第に豊かにされていきます。 2024年度 説教要約 一覧 新約聖書 『マタイによる福音書』
礼拝に来てみませんか? 千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。 ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
この「幸いである」という言葉は、「幸福な気持ちを味わっている」という意味の言葉ではありません。自分が幸福な気持ちでいるかどうかが問題なのではなくて、「あなたは神様から祝福されている」というう意味で「幸いだ」と言われているのです。ですから、この言葉は、本来、「幸いである」というよりも、「祝福されている」と翻訳した方がよいような言葉なのです。また、この箇所に使われている「心」という言葉は、通常の「心」という言葉とは違う言葉が使われています。この箇所で使われている言葉は、どちらかと言うと、「心」というよりも、「霊」と翻訳されることの方が多い言葉です。聖書の言う「霊」とは、私たちの人格の中心、心よりももっと深い部分のことを言います。更に「霊」は、神様と関わる部分、神様と交わる部分でもあります。そういう意味を踏まえると、ここで言う「心の貧しい人」というのは、「自分の一番深いところが貧しい人」、「神様との関わりにおいて貧しい人」、「人格の中心が貧しい人」ということになります。また、この箇所で使われている「貧しい」という言葉も、ただの「貧しい」という言葉ではありません。「生活に余裕がなくて苦しい」という貧しさを表わす言葉は、また別にあるのです。ここで用いられている言葉は、「完全に無一物である」ということを言い表わす言葉です。「全く何も持っていない。物乞いをして生きる他はない!」こういう意味の言葉です。つまり、イエス様がここで「幸いだ」と言われたのは、そのように自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きる他はないような徹底的に貧しい人のことを言うのです。しかも、先程、確認したように、この貧しさには「心の」という言葉が付け加えられています。「心において」、即ち「霊において」貧しい人々が幸いなのだ、と言うのです。自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きる他はない、そのことが、人格の中心にあてはめられている。つまり、自分の人格の中心は空っぽで、神様との関係も最悪で、心よりももっと深い自分自身がどん底の状態である、もう自分の中には依り頼むべきものが何一つ無い、誇るべきものが何一つない、ということです。これは、どう考えてみても「幸いな人」とは言えません。このように、このイエス様のお言葉は、私たちには、とうてい同意できるものではないのです。では、何故、イエス様は、そういう「心の貧しい人々が幸いなのだ」と言われたのでしょうか。
イエス様の周りにいた弟子たちや群衆は、決して立派な人たちではありませんでした。どちらかと言うと社会からはみ出していたような人たちばかりです。そもそも、イエス様が主に活動なさったガリラヤ地方という地域は、以前にも学びましたように、ユダヤ民族からも民族の恥として忌み嫌われていた地域でした。またイエス様の噂を聞きつけて他の地域からやってきた人たちも、おそらく自分自身の色んな欠けや罪に苦しみ、自分ではどうにも出来なくて、イエス様の助けを真剣に願ってやってきた人たちではなかったかと思います。つまり、彼らこそ心の貧しい人々だったのです。イエス様はそういう人々に向かって、「心の貧しい人々は、幸いである」と語りかけて下さいました。これは即ち、イエス様が目の前にいる人たちに向かって「あるがままのあなた方が神様に祝福されている」と宣言して下さった、ということでしょう。
イエス様は今、私たちにも語りかけて下さいます。「心の貧しい人々は、幸いである」と。「確かにあなたには醜さもあるし、弱さもある。否定的な考えがあり、希望のない冷たい心がある。確かにあなたには愛が欠けている。私もそのことをちゃんと知っている。けれども、たとえそうであったとしても、神様はあるがままのあなたを愛しておられる。そういうあなたを神様は深い憐れみをもって救って下さるのだ!」このようにイエス様は語りかけて下さるのです。
けれども、イエス様は私たちの貧しい生き方そのものを肯定なさったわけではありません。心が狭く、愛に欠けている私たちの生き方がそのままに認められたわけではない。心の貧しさ、これは言い換えるならば罪でありましょう。罪は罰せられなければなりません。神様は、私たちの罪を激しく怒り、裁き、呪い、罰せられます。けれども、その裁きが終わり、刑罰が終わってみると、そこに一人の人が十字架にかけられて死んでいました。そのお方こそ、私たちの救い主イエス・キリストです。イエス・キリストの死によって、神様の怒りは貫かれました。そして、同時に、そこで私たちの罪が裁かれ、罰せられたのです。もう私たちは裁かれる必要がありません。完全なる赦しが与えられたのです。心の貧しい、自らの中に何らよいものがない。拠り所となる豊かさもない。その貧しさのゆえに常に人を傷つけ、問題を起し、悲惨な事態を生んでしまう。そんな私たちを、主イエス・キリストが背負って下さいました。そして「あなたは幸いである。そんなあなたが神様から祝福されている」「もうあなたは、自分の中に豊かさがないと嘆かなくてもいい。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものが何一つなくても、私はあなたを愛し、あなたを背負い、支えていく。だからあなたは幸いなのだ。安心して生きるように!」とイエス様は自らの命を懸けて宣言して下さったのです。
心の貧しい者たちは、自分の心の中に、拠り所となるものを何一つ持っていません。豊かさがなく、愛がない。度量も狭いのです。そのことを自分でもよく自覚しています。そういう者たちは、もう神様の救いに依り頼む他はないのです。実際にイエス様の周りには、そういう人たちがイエス様を慕って、沢山集まってきました。イエス様はそういう人たちに向かって、「心が貧しく、本当に神の国を必要としているあなた方は幸いである。あなた方はもう既に神の国に生き始めている」と宣言して下さったのです。
私たちに求められているのは、まずこのイエス様が与えて下さった幸いを素直に受け止め、喜んで生きるということです。決して心の貧しい人になることが求められているのではありません。そんな努力をしなくても、もともと私たちは心の貧しい者たちなのですから。
まず私たちは、イエス様が命懸けで打ち立てて下さったこの幸いの中に身を置くことから始めましょう。その時に、私たちの貧しい心は、私たちが頑張るのではなくて、イエス様によって次第に豊かにされていきます。