日曜朝の礼拝「悲しむ人々は幸いである」

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悲しむ人々は幸いである

日付
説教
吉田謙 牧師
4 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。マタイによる福音書 5章4節

 私たちは、それぞれに様々な悲しみや苦しみを抱えながら生きています。愛する者を失った悲しみの中で懸命に生きている人がいます。自分の病気や怪我や障害、あるいは老いの現実の中で悲しんでいる人がいます。家族の病気に直面し、嘆き悲しんでいる人がいます。あるいは仕事や生活の面での不安をかかえながら悲しんでいる人がいます。家族や隣人、同僚との人間関係に苦しみ、悲しんでいる人もいます。私たちは、それぞれに異なった悲しみを抱えながら生きているのです。その私たち一人一人に対して、イエス・キリストは、「悲しむ人々は幸いである」と語りかけ、宣言して下さったのです。これは即ち、私たちの悲しみの現実のただ中に、イエス様が命懸けで幸いを作り出して下さった、ということでしょう。

 では、その幸いとは何でしょうか。それは「その人たちは慰められる」ということです。「悲しむ人々には、慰めが与えられる。そこに、悲しむ人々の幸いがあるのだ!」とイエス様は教えて下さったのです。

 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」、この「慰められる」という受け身のかたちは、実は神様のことがそこに含み込まれている表現です。イスラエルでは、「神様が慰めて下さる」という言い方をはばかり、ただ「慰められる」と言い表したのでした。つまり、ここでイエス様は「悲しむ人々は幸いである、その人たちは神様が慰めて下さる!」と語りかけて下さったのです。また、この「慰める」と翻訳されている言葉は、もともとのギリシャ語では「横から語りかける」、「側(そば)から呼びかける」という意味の言葉です。

 私たちは悲しみを味わう時に、しばしば神様から見捨てられたのではないかと思うことがあります。「神様から見捨てられた」とまでは思わなくても、神様の愛が見えなくなることがあるのです。しかし本当は、神様が私たちをお見捨てになったわけではありませんし、神様の愛が私たちに届かなくなったわけでもありません。「悲しむ人々は幸いである。悲しんでいる人は、悲しんでいるままで神様から祝福されている。神様から愛されている!」このようにイエス様は、誤解している私たちに、天の父なる神様の様子を知らせて下さったのでした。悲しんでいる時には、なかなか気づかないのですが、その悲しんでいる人に向かって神様の愛は特別に注がれています。やがて、悲しんでいる時に注がれた愛が、ちゃんと一人一人の心の中心にまで届いていき、やがてその人は慰められるであろう、と言うのです。

 詩編56編には、こういう御言葉があります。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれがのっているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えて下さい。」(詩編56編9節)。

 神様は、私たちの嘆きを数えられます。そして、神様のノートにちゃんとそれを記録して下さるのです。私たちの流す涙の一粒一粒を、神様の手元にある革袋に蓄えて下さる、と言うのです。革袋というのは、砂漠を旅する者が飲料水を蓄えるためにもっていたものです。神様は、私たちの涙を、私たちの悲しみを、ただ記録するだけではなくて、飲みほして下さいます。私たちの悲しみを自分のものとして下さるのです。この詩編が歌った神様のお姿は、イエス様のお姿そのものではないでしょうか。イエス様は、私たちの苦しみや悲しみを全部担って、十字架への道を歩んで下さいました。私たちが経験する悲しみは、既にイエス様が味わって下さった悲しみばかりです。イエス様が知らないような悲しみは何一つありません。ですからイエス様は、私たちが、何故、今、悲しんでいるのか、何故、今、涙しているのか、ちゃんとご存じなのです。全てご存じの上で、「悲しんでよい」、「涙してよい」と言って下さいます。私たちの悲しみを全部受けとめて、ご自分の革袋に私たちの涙を蓄え、私たちと共に悲しんで下さるのです。

 私たちが味わう悲しみは、人それぞれ違います。また私たちは、大小様々なことを悲しみます。他人から見れば本当につまらないと思うことを、心から悲しんでしまうことも時にはあるでしょう。けれども、どんなにちっぽけな悲しみであっても、またどんなに深い悲しみであっても、その根本にあるものは、皆同じです。それは、私たち人間の弱さであり、惨めさであり、罪なのです。そうであるならば、この悲しみをその根本から解決できるお方は、この罪を解決できるお方しかいない、ということになります。つまり、十字架の上で私たちの罪を全部解決して下さった私たちの救い主イエス・キリスト以外に、私たちの悲しみをその根本から解決できるお方はいない、ということです。そういう意味では、どんなにちっぽけな悲しみでも、どんなに深い悲しみでも、その全ての悲しみを、傍らに立って下さるイエス・キリストに委ね切ることの出来る人は幸いなのです。

 私は子供の頃、とても恥ずかしがりやで、人前で泣くことが恥ずかしくて、学校では絶対に泣きませんでした。学校で悲しいことがあっても、辛いことがあっても、ぐっと我慢して泣かなかったのです。けれども、家に帰って、母親の顔を見ると、今までこらえていた感情が押さえきれなくなり、思わず泣いてしまうことが度々ありました。勿論、その時には、もう恥ずかしいとか、かっこ悪いとか、そんな気持ちは全然ありません。母親の前では、安心して思いっきり泣くことが出来たのです。

 私たちクリスチャンの悲しみとは、こういう悲しみではないでしょうか。神様の腕の中で、イエス様の腕の中で、安心仕切って思いっきり悲しみ、思いっきり涙を流すのです。私たちの悲しみは、こういう悲しみです。

 人間の親は、子供の悲しみを全部受け止めたり、解決できたりするわけではありません。時には、親にも理解できない悲しみがあり、親にも解決できない悲しみがあります。それでも、親の腕の中で安心して泣けるだけで、その子は幸いです。慰められるのです。何故でしょうか。それはその子が親を全面的に信頼しているからです。信頼している親のふところで、思いっきり泣くことが出来る、それだけで子供には慰めなのです。ましてや、それが天の父なる神様であるならば尚更のことでしょう。私たちが天の父なる神様を全面的に信頼し、そのふところで安心して泣くことが出来るならば、その革袋に注ぎ込むようにして涙を流すことが出来るならば、こんなに幸いなことはありません。天の父は、人間の親とは違い、私たちの悲しみを全部理解できるお方です。そのお方の前で、安心して思いっきり涙を流すことが出来る、そういうあなたが幸いなのだ、とイエス様は言われるのです。

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