日曜朝の礼拝「柔和な人々は幸いである」

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柔和な人々は幸いである

日付
説教
吉田謙 牧師
5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
マタイによる福音書 5章5節

この「柔和な」という言葉は、マタイによる福音書には、あと二箇所出てきます。一つ目は11章29節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11章28節-30節)

 イエス・キリストは柔和で謙遜なお方です。苛立ちに負け、怒りに任せ、力に任せて事をなそうとはなさいません。むしろイエス様がなさったことは、私たちの罪を黙って背負い、十字架の死への道を突き進んで下さることでした。イエス様のこの柔和さによって、私たちの罪が赦され、救いが実現しました。そしてイエス様は、私たちにも、ご自分と共に「この柔和さの道を歩むように!」と言われます。「わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい!」とは、そういうことです。くびきというのは、農作業や車を引くための二頭の牛などを結びつける横木のようなものです。イエス様がここで「わたしのくびき」と言われる時に、これはイエス様が、罪と死の支配にあえいでいる私たちと一つのくびきでしっかりと結び付けられている、ということを意味しています。ちょうど牛や馬が横木でつながれて、黙々と荷物を引いたり、畑を耕したりするように、イエス様は私たちと運命を共有し、「共に」歩んで下さるのです。「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われているのは、イエス様がその大部分を背負っていて下さるからでしょう。イエス様が「柔和に生きるように」と言われる時に、私たちが重苦しく感じるのは、自分の力でやり遂げようとするからです。しかし、本当はそんな肩肘張る必要はありません。私たちは、イエス様と一つのくびきでしっかりと結びあわされています。私たちは、イエス様に重荷を背負っていただき、イエス様に励まされながら、イエス様と共に歩むのです。イエス様が一緒に歩んで下さるのですから、この「柔和に生きる道」も、軛(くびき)は負いやすく、きっと私たちにも歩み通すことが出来るはずです。

 もう一箇所、「柔和な」という言葉が出てくるのは、21章5節です。イエス様はそのご生涯の最後に、エルサレムの町に入られました。その時に、イエス様は、ろばの子に乗ってエルサレムに入城なさいました。この5節の御言葉は、このロバに乗る救い主が何を表しているのかを示しています。これはゼカリヤ書9章9節からの引用になっています。「シオンの娘に告げよ。見よ。お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ロバに乗り、荷を負うロバの子、子ロバに乗って。」(マタイ21章5節-30節)

 ロバに乗る救い主というのは、柔和な救い主を表していました。ロバは、馬のように、さっそうとしていません。また、馬のように、戦争で使われるわけでもありません。ロバに乗る救い主、それは馬にまたがり、さっそうと神の敵を討ち滅ばす救い主ではないのです。誰も打ち滅ぼさない救い主、ただご自分だけが神様に打たれて滅びる救い主。それがイエス・キリストでした。

 私たちは、人から苦しめられると、腹が立ちます。たとえ、それが故意ではなく、何かの間違いで苦しみがやって来たとしても、「お前のせいだ!」と、やっぱり腹が立つのです。しかし、イエス様は、私たちの罪を担って十字架につけられながらも、「お前たちのせいで苦しまなければならない!」と苛立つことはなかったのです。むしろ、ご自分を十字架につけた者たちのために、「父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と、執り成し祈って下さったのでした。このようにイエス様は、最後の最後まで私たちに対する優しさを失いませんでした。イエス様が、ロバに乗ってこの十字架の町にやって来られたのは、最後の最後まで優しさを失わず、愛して下さる柔和なお方として御自分を表すためだったのです。

 このように「柔和な」というこの言葉は、いずれもイエス・キリストの救い主としてのお姿を描き出したものでした。私たちは、この柔和なお方であるイエス・キリストによって、神様の恵みの内に入れられました。「柔和な人々は幸いである」、これは、本来、柔和とは程遠い、刺々しい思いに満たされている私たちとくびきを共にしながら、とことん柔和の限りを尽くされたイエス・キリストに支えられているあなた方は「何と幸いなことか!」ということです。

 イエス様は、「柔和な者こそが地を受け継ぐ!」と言われました。私たちには柔和に生きる力はないでしょう。けれども、本当に柔和なお方が、私たちとくびきを共にして下さいます。柔和の限りを尽くされたイエス・キリストが、柔和とは程遠い、刺々しい私たちと、くびきを共にし、横でしっかりと支えて下さるのです。ですから私たちは、何も心配する必要はありません。全面的に柔和なイエス様にお任せし、信じて歩めばよいのです。

 よく私たちは、`様々な攻撃を受ける時に、色んな手立てを尽くすことに心を奪われ、イエス様が共にいて下さることを忘れてしまうことがあります。そのために、大きな過ちを犯してしまうことがあるのです。本当は全ての鍵を神様が握っておられるというのに、そのことを忘れてしまい、自分の力で、ああでもない、こうでもないと藻掻いてしまうのです。「人事を尽くして天命を待つ」という諺があります。もし私たちが真っ先に人事を尽くそうとするならば、際限のない心配の渦の中に巻き込まれ、結局は祈ることさえ忘れてしまい、平安を失ってしまうことでしょう。まず私たちは事にあたる前に、静まって祈るべきです。命懸けで私たちを救って下さったイエス様の柔和さを思い起し、その柔和なイエス様が他でもない私とくびきを共にして下さることを思い起こすべきでありましょう。そうやって静まって祈り、主に望みを置く時に、きっと、今、何をなすべきかが示されると思います。その上で人事を尽くせばよいのです。自分に出来る範囲で、精一杯のことをすればいい。

 柔和に生きることを選んだがために、損をしたり、くやしい思いをすることがあるのかもしれません。しかし、そこで私たちは、あたふたしなくてもいい。祈りの生活の中で、きっと「そういうあなたが幸いなのだ!」とイエス様が慰めて下さるでしょう。神の国の原理は力ではありません。柔和さが決め手です。「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」

 まだこの世には、力ずくの生き方がまかり通っています。しかし、この主の約束を信じ、主に望みを置きながら、諦めずに歩んでいきたいと思います。その時に、私たちは少しずつ、イエス様に似る者へと、柔和な者へと造り変えられていくのではないかと思います。

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