6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。マタイによる福音書 5章6節 イエス様は、「義に飢え渇く人々が神様から祝福されている」と言われました。では「義に飢え渇く」とは、いったいどういう意味なのでしょうか。この「義」という言葉には、色んな意味があります。神様の正義、神様と人間との正しい関係、あるいは人間の実現すべき正しさ。色んな意味が、この「義」という言葉にはあるのです。ここでの「義」という言葉の意味は、山上の説教全体の文脈から判断すると、私たちの実現すべき正しい生活、つまり正しい行い、正しい心という意味として理解すればよいと思います。正しく生きたいという願いをもっている人、そういうことを飢え乾くような切実な思いで願っている人は幸いである。その人はやがて満たされるであろう、とイエス様は約束して下さったのでした。 私たちは、これから山上の説教を学んでいく中で、イエス様の教えを沢山学んでいくことになります。私たちはそのイエス様の教えを聞く時に、「自分にはとても真似ることが出来ない!」と何度も悲鳴をあげたくなることがあるのではないでしょうか。例えば、5章43節のところには、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えられています。敵を愛し、敵のためにも祈るような驚くべき愛をイエス様は求められたのです。この教え一つとってみても、「これは私たちには到底実現不可能だ!」と言いたくなります。教会の仲間たちのためにも、十分に時間を割いて祈ることができていないというのに、「敵を愛し、敵のために祈れ」というのは、私たちの祈りの生活を根本から見直すことを要求されているかのようです。確かにイエス様の語られる説教は、とても素晴らしいものでしょう。けれども、実際にそれを行おうとする時に、私たちは「もうお手上げだ!」とすぐに諦めたくなるのです。「このように私たちは駄目な人間なのだから、イエス様の十字架で赦してもらえばよい。そのためにイエス様の十字架はあるのだ!」と受けとめる人もいます。確かにこれも一つの信仰でしょう。けれども、ここでイエス様が「幸いだ!」と言われている人は、ただ赦されるだけで満足している人のことではありません。「なんとかこの義なる生活を自分のものにしたい!」そう願って真剣に取り組んでいる人のことです。ここでは、その人が幸いなのだ、と言われているのです。 人には、それぞれに色んな弱さがあり、何度、失敗しても、なかなかその弱さを克服することが出来ず、「ああ、またやってしまった」と自分の駄目さ加減に嫌気がさし、落ち込んでしまうことがあります。私も、「こういう自分の悪い性格が変えられ、悪い部分が全部そぎ落とされて、この山上の説教が描くような生活が出来たなら、どんなに素晴らしいことだろう」と、つくづく思わされることがあります。しかし私たちは、そうやってただ落ち込むだけではなくて、しばらく経って落ち着いた時に、そういう何度失敗しても懲りない罪人の私を、神様が尚も諦めずに、愛し続けて下さることを思い、心から感謝することが出来ます。私たちクリスチャンには、こういう素晴らしい恵みが既に与えられているのです。私たちは、なお失敗や罪を繰り返す弱い者たちです。けれども、神様はこの嫌なところがあり、汚(けが)れたところのある私を赦し、尚も愛して下さいます。「私はあなたがまだ敵であった時に、あなたの罪を贖い、あなたを滅びから救い出すために御子を十字架に送った。私にとってあなたは、それほどまでに価高く、尊く、絶対に失われてはならない、誰にも替えがたい宝物のような存在なのだ。もうあなたは過去の失敗や汚(けが)れや罪に、くよくよしながら生きなくてもいい。それらは全部、御子の十字架によって洗い流された。だから、あなたは、くよくよせずに、諦めないで、もう一度、やり直してみなさい。新しく生きてみなさい。自分らしく輝いて生きるように!」と励まして下さるのです。時には、自分の駄目さ加減に打ちのめされて、こんなに懲りない自分では、いくら何でも駄目ではないかと落ち込んでしまうこともあるでしょう。けれども、イエス様の十字架の愛を思い起こす時に、私たちは「やっぱりこれではいけない」と思うようになる。そして、もう一度、この罪の現実と戦う力が与えられていくのです。 イエス様は、そういう私たちに対して、この山上の説教の最初のところで、励ましを与えて下さいました。ここで言われている「飢え渇いている人」とは「出来ない人」のことです。その通りに生きることが出来ないので、なんとかそうなりたいと切に願い、飢え渇くのです。苦しくて、辛くて、やるせないのです。しかし「そのようにして飢え渇いている者は幸いである。その人は既に神様の祝福を受けている!」これが、山上の説教を語るに当たってのイエス様の励ましでした。私たちは、このイエス様の励ましの言葉に促されながら、安心して、この山上の説教を聞くことが出来るのです。そして、ただ安心するだけではなくて、「なんとかしてイエス様の教えに生きてみたい!」という思いに突き動かされるのではないでしょうか。 イエス様は、何度罪を犯しても懲りずにまた同じ罪を犯し続ける愚かな私たちの姿を見つめながら、なお「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成し祈って下さいました。そして最後には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれながら、ただお一人、神様の怒りと呪いを全部引き受けて、十字架の上で死んで下さったのです。このイエス・キリストの十字架の恵み、驚くべき神様の愛に目が開かれた時に、私たちの心は感動で打ち震えると思います。そして、なんとかしてイエス様の期待にお応えしたい、イエス様に喜ばれるような生き方をしたいと思う。これは至極当然のことではないでしょうか。そうやって私たちが、イエス様の十字架の愛で赦されながら、しかしただ赦されるだけではなくて、このイエス様の十字架の愛に心打ち震えて、何とかしてイエス様の御言葉に従いたいと願い、飢え乾いていくならば、私たちの上にも確かに、イエス様が教えて下さるような生活が少しずつ実現していくのだと思います。 イエス様は、山上の説教を聞く私たちに対して、まずこの言葉をもって励まして下さいました。私たちは、これからイエス様の山上の説教を学んでいくにあたって、このイエス様の励ましの言葉を心にしっかりと刻んでおきたいと思います。「こんなレベルの高い生き方は私には到底無理だ!」と簡単に投げ出してしまうのではなくて、やっぱり自分に出来る精一杯のことはするのです。しかし精一杯努力しても、きっと自分の駄目さ加減をまた嫌というほど突きつけられるでしょう。けれども、たとえそうであったとしても、そういう私たちをあるがままで受けとめ、祝福しておられるお方が天にはいらっしゃいます。そのことを心に刻みつつ、本当に心から感謝し、また心から悔い改めて、新たに出直したいと思います。その時に、「そういうあなたが幸いなのだ!」と主は励まして下さるでしょう。 2024年度 説教要約 一覧 新約聖書 『マタイによる福音書』
礼拝に来てみませんか? 千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。 ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
イエス様は、「義に飢え渇く人々が神様から祝福されている」と言われました。では「義に飢え渇く」とは、いったいどういう意味なのでしょうか。この「義」という言葉には、色んな意味があります。神様の正義、神様と人間との正しい関係、あるいは人間の実現すべき正しさ。色んな意味が、この「義」という言葉にはあるのです。ここでの「義」という言葉の意味は、山上の説教全体の文脈から判断すると、私たちの実現すべき正しい生活、つまり正しい行い、正しい心という意味として理解すればよいと思います。正しく生きたいという願いをもっている人、そういうことを飢え乾くような切実な思いで願っている人は幸いである。その人はやがて満たされるであろう、とイエス様は約束して下さったのでした。
私たちは、これから山上の説教を学んでいく中で、イエス様の教えを沢山学んでいくことになります。私たちはそのイエス様の教えを聞く時に、「自分にはとても真似ることが出来ない!」と何度も悲鳴をあげたくなることがあるのではないでしょうか。例えば、5章43節のところには、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えられています。敵を愛し、敵のためにも祈るような驚くべき愛をイエス様は求められたのです。この教え一つとってみても、「これは私たちには到底実現不可能だ!」と言いたくなります。教会の仲間たちのためにも、十分に時間を割いて祈ることができていないというのに、「敵を愛し、敵のために祈れ」というのは、私たちの祈りの生活を根本から見直すことを要求されているかのようです。確かにイエス様の語られる説教は、とても素晴らしいものでしょう。けれども、実際にそれを行おうとする時に、私たちは「もうお手上げだ!」とすぐに諦めたくなるのです。「このように私たちは駄目な人間なのだから、イエス様の十字架で赦してもらえばよい。そのためにイエス様の十字架はあるのだ!」と受けとめる人もいます。確かにこれも一つの信仰でしょう。けれども、ここでイエス様が「幸いだ!」と言われている人は、ただ赦されるだけで満足している人のことではありません。「なんとかこの義なる生活を自分のものにしたい!」そう願って真剣に取り組んでいる人のことです。ここでは、その人が幸いなのだ、と言われているのです。
人には、それぞれに色んな弱さがあり、何度、失敗しても、なかなかその弱さを克服することが出来ず、「ああ、またやってしまった」と自分の駄目さ加減に嫌気がさし、落ち込んでしまうことがあります。私も、「こういう自分の悪い性格が変えられ、悪い部分が全部そぎ落とされて、この山上の説教が描くような生活が出来たなら、どんなに素晴らしいことだろう」と、つくづく思わされることがあります。しかし私たちは、そうやってただ落ち込むだけではなくて、しばらく経って落ち着いた時に、そういう何度失敗しても懲りない罪人の私を、神様が尚も諦めずに、愛し続けて下さることを思い、心から感謝することが出来ます。私たちクリスチャンには、こういう素晴らしい恵みが既に与えられているのです。私たちは、なお失敗や罪を繰り返す弱い者たちです。けれども、神様はこの嫌なところがあり、汚(けが)れたところのある私を赦し、尚も愛して下さいます。「私はあなたがまだ敵であった時に、あなたの罪を贖い、あなたを滅びから救い出すために御子を十字架に送った。私にとってあなたは、それほどまでに価高く、尊く、絶対に失われてはならない、誰にも替えがたい宝物のような存在なのだ。もうあなたは過去の失敗や汚(けが)れや罪に、くよくよしながら生きなくてもいい。それらは全部、御子の十字架によって洗い流された。だから、あなたは、くよくよせずに、諦めないで、もう一度、やり直してみなさい。新しく生きてみなさい。自分らしく輝いて生きるように!」と励まして下さるのです。時には、自分の駄目さ加減に打ちのめされて、こんなに懲りない自分では、いくら何でも駄目ではないかと落ち込んでしまうこともあるでしょう。けれども、イエス様の十字架の愛を思い起こす時に、私たちは「やっぱりこれではいけない」と思うようになる。そして、もう一度、この罪の現実と戦う力が与えられていくのです。
イエス様は、そういう私たちに対して、この山上の説教の最初のところで、励ましを与えて下さいました。ここで言われている「飢え渇いている人」とは「出来ない人」のことです。その通りに生きることが出来ないので、なんとかそうなりたいと切に願い、飢え渇くのです。苦しくて、辛くて、やるせないのです。しかし「そのようにして飢え渇いている者は幸いである。その人は既に神様の祝福を受けている!」これが、山上の説教を語るに当たってのイエス様の励ましでした。私たちは、このイエス様の励ましの言葉に促されながら、安心して、この山上の説教を聞くことが出来るのです。そして、ただ安心するだけではなくて、「なんとかしてイエス様の教えに生きてみたい!」という思いに突き動かされるのではないでしょうか。
イエス様は、何度罪を犯しても懲りずにまた同じ罪を犯し続ける愚かな私たちの姿を見つめながら、なお「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成し祈って下さいました。そして最後には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれながら、ただお一人、神様の怒りと呪いを全部引き受けて、十字架の上で死んで下さったのです。このイエス・キリストの十字架の恵み、驚くべき神様の愛に目が開かれた時に、私たちの心は感動で打ち震えると思います。そして、なんとかしてイエス様の期待にお応えしたい、イエス様に喜ばれるような生き方をしたいと思う。これは至極当然のことではないでしょうか。そうやって私たちが、イエス様の十字架の愛で赦されながら、しかしただ赦されるだけではなくて、このイエス様の十字架の愛に心打ち震えて、何とかしてイエス様の御言葉に従いたいと願い、飢え乾いていくならば、私たちの上にも確かに、イエス様が教えて下さるような生活が少しずつ実現していくのだと思います。
イエス様は、山上の説教を聞く私たちに対して、まずこの言葉をもって励まして下さいました。私たちは、これからイエス様の山上の説教を学んでいくにあたって、このイエス様の励ましの言葉を心にしっかりと刻んでおきたいと思います。「こんなレベルの高い生き方は私には到底無理だ!」と簡単に投げ出してしまうのではなくて、やっぱり自分に出来る精一杯のことはするのです。しかし精一杯努力しても、きっと自分の駄目さ加減をまた嫌というほど突きつけられるでしょう。けれども、たとえそうであったとしても、そういう私たちをあるがままで受けとめ、祝福しておられるお方が天にはいらっしゃいます。そのことを心に刻みつつ、本当に心から感謝し、また心から悔い改めて、新たに出直したいと思います。その時に、「そういうあなたが幸いなのだ!」と主は励まして下さるでしょう。