7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。マタイによる福音書 5章7節 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」とイエス様は教えられました。憐れみ深い人の幸いは、神様から憐れみを受けることなのです。では神様の憐れみとは、いったいどのようなものなのでしょうか。そもそも憐れみとは、権利や資格のない者に対する一方的な愛を意味します。私たちは、本来、神様に愛していただく資格も資質も全く持ち合わせていない罪人でした。そんな私たちが、どういうわけか、神様の一方的な憐れみによって愛され、罪赦されて、神様のものとされたのです。私たちは、「イエス様に贖われた!」とよく口にすると思います。この「贖われた」というのは、「買い取られた」という意味の言葉です。要するに私たちは、買い取られて神様のものとされたのです。そして、そのために支払われたのが、なんと神の子イエス・キリストの命であった、と言うのです。取るに足りない私たちを贖うために、買い取るために、救い取るために、神の独り子であるイエス・キリストが命を差し出して下さいました。それほどまでに私たちの命は価高く、尊く、大切なのだと言って下さるのです。何という幸いでしょうか。 この恵みがよく言い表されているイエス様の譬え話があります。マタイによる福音書18章25節以下に記されている有名な「仲間を赦さない家来のたとえ話」です。ある王様から、家来がお金を借りていました。その額は一万タラントンでした。この一万タラントンというのは二十万年分の賃金に相当します。つまり、これは天文学的な数字であり、どんなに頑張ってみても絶対に返すことのできない金額なのです。返済の期日が来て、王様は、持ち物も、自分も家族も売って、借金を返すようにと命じます。家来はひれ伏して、どうか待ってくださいと懇願しました。この家来が、返済する力を持っていないことを知っている王様は、その姿を見て憐れに思い、何と!借金を帳消しにしてやった、と言うのです。この人は、一生かかっても決して返すことのできない借金を、突然、免除されて、本当に晴れ晴れとした思いで帰っていきました。ところが、彼は、街で、百デナリオンを貸している仲間に出会います。百デナリオンというのは、今の私たちの感覚で言うならば、何百万円という金額です。これも決してはした金ではありません。その仲間は、彼にそういう額の負債を負っていたのです。彼はその仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫りました。その人は「どうか待って欲しい。きっと返すから」としきりに頼みます。けれども彼はそれを赦さず、その仲間を牢屋に放り込んでしまいました。それを見た他の仲間たちが王様に事の次第を告げると、王様は彼を呼びつけ、借金の棒引きをとりやめにし、彼を牢に入れてしまいました。そして、彼にこう言ったのです。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と。これが、私たち一人一人に神様が語りかけておられるお言葉です。神様は、独り子イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちを憐れみ、罪を赦して下さいました。私たちの罪は、神の独り子が十字架にかかって死ななければならない程に大きいのです。私たちはどんなに努力しても、それを償うことは出来ません。それどころか、私たちは日々、その罪を増し加えています。その私たちの罪を、神様は全て帳消しにして下さいました。借金を帳消しにしたなら、貸していた者は損害を被ります。神様は私たちの罪を赦すために、莫大な損害を引き受けて下さったのです。それが独り子イエス・キリストの十字架の死でした。神様はその損害を引き受け、私たちを赦して下さったのです。ここに神様の深い憐れみがあります。その憐れみによって私たちを赦して下さった主が、私たちに、自分に百デナリオンの借金のある人を赦すことを求めておられます。それが、私たちが憐れみ深い人となることです。百デナリオンの借金を赦すのは、決して簡単なことではありません。相当の損害を引き受けなければならない。このように人を赦し、憐れみ深い人になることは、苦しみを負い、損をしなければならない、ということです。`憐れみ深く生きたなら、やがてそれが巡り巡って自分のためにもなるのだ、と思っているうちは、憐れみ深い人になることなど到底出来ません。どう巡り巡っても自分のためにはならないのです。むしろ苦しみや損失を受けるだけでしょう。そこでなお憐れみ深い者となることは、私たちの努力によって出来ることではありません。私たちが、イエス様を通して神様の大きな憐れみにあずかっていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする時に、イエス様が私たちの中に、そのような憐れみ深い心を造り出して下さるのです。 従って、この7節の教えは、「憐れみ深い人々になりなさい。そうすればあなた方も神様の憐れみを受けることが出来る!」という教えではありません。私たちは、憐れみ深い者となることによって神様の憐れみを受けるのではないのです。そういう順序ではなくて、私たちは既に神様の憐れみをいただいています。その神様の憐れみに促されて、私たちも少しずつ憐れみ深い者へと変えられていく、ということなのです。 神様が、まず独り子イエス・キリストの命という莫大な犠牲を払って私たちを赦し、私たちを憐れんで下さいました。その恵みの中で、私たちは、人を憐れむことができます。憐れまなければならないのではありません。そのために努力していくのでもありません。特別に寛容な人間になるのでもありません。憐れみを受けた者だから、憐れみに生きるのです。ただそれだけのことです。この全く新しいイエス・キリストの十字架の恵みの世界に生き始める時に、私たちは既に、憐れみ深い者へと変えられているのではないでしょうか。 決して無理をして背伸びする必要はありません。皆それぞれに与えられた賜物、置かれた環境、信仰の成長段階は違うのですから、それぞれの仕方で憐れみに生きればよいのです。まだ命を捨てるほどに深い憐れみに生きることは出来ません。しかし、今、自分の出来る範囲で、悲しみを共にし、祈るのです。まだ命を捨てるほどに仕えることは出来ません。しかし、私たちはイエス様の十字架を知りましたから、その十字架の愛に促されて、その方のために、なすべきことを、たとえそれが小さな事であっても始めるのです。まだまだ私たちには、色んな欠けや色んなほころびがあるでしょう。しかし、私たちは、その限界を知りつつも、そこで決して諦めてしまうのではなくて、今、自分に出来る精一杯のことを追い求めていくのです。それは何故でしょうか。主が赦して下さるからです。まず主が先立ち、主が私たちを憐れんで下さるからであります。この主の憐れみに依り頼みながら、やがて天国では、イエス様と同じ憐れみに生きることができることを信じつつ、それぞれの仕方で、この憐れみに生きる道を歩み通したいと思います。 2024年度 説教要約 一覧 新約聖書 『マタイによる福音書』
礼拝に来てみませんか? 千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。 ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」とイエス様は教えられました。憐れみ深い人の幸いは、神様から憐れみを受けることなのです。では神様の憐れみとは、いったいどのようなものなのでしょうか。そもそも憐れみとは、権利や資格のない者に対する一方的な愛を意味します。私たちは、本来、神様に愛していただく資格も資質も全く持ち合わせていない罪人でした。そんな私たちが、どういうわけか、神様の一方的な憐れみによって愛され、罪赦されて、神様のものとされたのです。私たちは、「イエス様に贖われた!」とよく口にすると思います。この「贖われた」というのは、「買い取られた」という意味の言葉です。要するに私たちは、買い取られて神様のものとされたのです。そして、そのために支払われたのが、なんと神の子イエス・キリストの命であった、と言うのです。取るに足りない私たちを贖うために、買い取るために、救い取るために、神の独り子であるイエス・キリストが命を差し出して下さいました。それほどまでに私たちの命は価高く、尊く、大切なのだと言って下さるのです。何という幸いでしょうか。
この恵みがよく言い表されているイエス様の譬え話があります。マタイによる福音書18章25節以下に記されている有名な「仲間を赦さない家来のたとえ話」です。ある王様から、家来がお金を借りていました。その額は一万タラントンでした。この一万タラントンというのは二十万年分の賃金に相当します。つまり、これは天文学的な数字であり、どんなに頑張ってみても絶対に返すことのできない金額なのです。返済の期日が来て、王様は、持ち物も、自分も家族も売って、借金を返すようにと命じます。家来はひれ伏して、どうか待ってくださいと懇願しました。この家来が、返済する力を持っていないことを知っている王様は、その姿を見て憐れに思い、何と!借金を帳消しにしてやった、と言うのです。この人は、一生かかっても決して返すことのできない借金を、突然、免除されて、本当に晴れ晴れとした思いで帰っていきました。ところが、彼は、街で、百デナリオンを貸している仲間に出会います。百デナリオンというのは、今の私たちの感覚で言うならば、何百万円という金額です。これも決してはした金ではありません。その仲間は、彼にそういう額の負債を負っていたのです。彼はその仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫りました。その人は「どうか待って欲しい。きっと返すから」としきりに頼みます。けれども彼はそれを赦さず、その仲間を牢屋に放り込んでしまいました。それを見た他の仲間たちが王様に事の次第を告げると、王様は彼を呼びつけ、借金の棒引きをとりやめにし、彼を牢に入れてしまいました。そして、彼にこう言ったのです。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と。これが、私たち一人一人に神様が語りかけておられるお言葉です。神様は、独り子イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちを憐れみ、罪を赦して下さいました。私たちの罪は、神の独り子が十字架にかかって死ななければならない程に大きいのです。私たちはどんなに努力しても、それを償うことは出来ません。それどころか、私たちは日々、その罪を増し加えています。その私たちの罪を、神様は全て帳消しにして下さいました。借金を帳消しにしたなら、貸していた者は損害を被ります。神様は私たちの罪を赦すために、莫大な損害を引き受けて下さったのです。それが独り子イエス・キリストの十字架の死でした。神様はその損害を引き受け、私たちを赦して下さったのです。ここに神様の深い憐れみがあります。その憐れみによって私たちを赦して下さった主が、私たちに、自分に百デナリオンの借金のある人を赦すことを求めておられます。それが、私たちが憐れみ深い人となることです。百デナリオンの借金を赦すのは、決して簡単なことではありません。相当の損害を引き受けなければならない。このように人を赦し、憐れみ深い人になることは、苦しみを負い、損をしなければならない、ということです。`憐れみ深く生きたなら、やがてそれが巡り巡って自分のためにもなるのだ、と思っているうちは、憐れみ深い人になることなど到底出来ません。どう巡り巡っても自分のためにはならないのです。むしろ苦しみや損失を受けるだけでしょう。そこでなお憐れみ深い者となることは、私たちの努力によって出来ることではありません。私たちが、イエス様を通して神様の大きな憐れみにあずかっていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする時に、イエス様が私たちの中に、そのような憐れみ深い心を造り出して下さるのです。
従って、この7節の教えは、「憐れみ深い人々になりなさい。そうすればあなた方も神様の憐れみを受けることが出来る!」という教えではありません。私たちは、憐れみ深い者となることによって神様の憐れみを受けるのではないのです。そういう順序ではなくて、私たちは既に神様の憐れみをいただいています。その神様の憐れみに促されて、私たちも少しずつ憐れみ深い者へと変えられていく、ということなのです。
神様が、まず独り子イエス・キリストの命という莫大な犠牲を払って私たちを赦し、私たちを憐れんで下さいました。その恵みの中で、私たちは、人を憐れむことができます。憐れまなければならないのではありません。そのために努力していくのでもありません。特別に寛容な人間になるのでもありません。憐れみを受けた者だから、憐れみに生きるのです。ただそれだけのことです。この全く新しいイエス・キリストの十字架の恵みの世界に生き始める時に、私たちは既に、憐れみ深い者へと変えられているのではないでしょうか。
決して無理をして背伸びする必要はありません。皆それぞれに与えられた賜物、置かれた環境、信仰の成長段階は違うのですから、それぞれの仕方で憐れみに生きればよいのです。まだ命を捨てるほどに深い憐れみに生きることは出来ません。しかし、今、自分の出来る範囲で、悲しみを共にし、祈るのです。まだ命を捨てるほどに仕えることは出来ません。しかし、私たちはイエス様の十字架を知りましたから、その十字架の愛に促されて、その方のために、なすべきことを、たとえそれが小さな事であっても始めるのです。まだまだ私たちには、色んな欠けや色んなほころびがあるでしょう。しかし、私たちは、その限界を知りつつも、そこで決して諦めてしまうのではなくて、今、自分に出来る精一杯のことを追い求めていくのです。それは何故でしょうか。主が赦して下さるからです。まず主が先立ち、主が私たちを憐れんで下さるからであります。この主の憐れみに依り頼みながら、やがて天国では、イエス様と同じ憐れみに生きることができることを信じつつ、それぞれの仕方で、この憐れみに生きる道を歩み通したいと思います。