8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。マタイによる福音書 5章8節 「清い」とは、字のごとくに「汚れのない状態」という意味があります。もし、神様の御前に出るに相応しい清さが、「汚れのない状態」だけを指すのであれば、誰一人、神様の御前に立つことは出来ないでしょう。 しかし、ここでイエス様は、そういうことを語ろうとしているのではないと思います。そこで、このことをもう少し深く掘り下げるために、イエス様が語られた一つの譬え話に注目したいと思います。ルカによる福音書18章9節以下の「ファリサイ派の人と徴税人」の譬え話です。二人の人が神殿の礼拝の場へと上りました。しかし、義とされて家に帰ったのは一人だけでした。「義とされた」ということは、神様が彼の礼拝を受け入れて下さった、ということです。つまり彼は「心の清い者」と認められた、ということでしょう。その人とは、当時、誰もが罪人の代表格と思っていた徴税人でした。彼は聖所から遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈ったのです。この礼拝、この祈りが神様に受け入れられ、彼は「心の清い者」と認められました。他方、ファリサイ派の人は神様に義とされなかった。彼は「心の清い者」と見なされなかったのです。この二人はどこが違っていたのでしょうか。ここに、「心が清い」という言葉の意味を知る鍵があります。 ファリサイ派の人は、神殿の聖所のまん前に堂々と立ち、目を天に向けて祈っています。将に、自分は神様の御前に立つことが出来る清い人間なのだ、という自信があったのでしょう。しかし、彼が祈ったことは何だったでしょうか。それは、自分がいかに正しい者であり、いかに罪から遠ざかり、よいことをしているか、ということです。彼は他の人と自分とを見比べています。特に徴税人と見比べて、自分がこのような罪人でないことを感謝します、と祈っているのです。これは、もはや祈りでも何でもない、ただの自慢話でしかありません。彼が見つめているのは神様ではなくて、自分自身なのです。自分がいかに良い者、立派な者、罪から遠い者であるか、という自分の姿を彼は見つめているのです。それに対して、あの徴税人は、遠く離れて立ち、目を天に上げようともしません。しかし彼はただひたすらに、神様を見つめています。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離し、ただ神様の憐れみのみを期待しているのです。この二人の違いが重要です。要するに心の清い人とは、まっすぐに神様を見つめ、神様の憐れみを求める人のことなのです。神様から目を離し、自分がどれだけ良い人間であるか、あるいは罪に汚れ、弱い人間であるか、人と比べてどちらがどうなのか、ということばかりに目を奪われる時に、私たちの心は、たちまち誇りや高ぶりやプライド、あるいは妬みや恨みや卑屈な思いで一杯になってしまうのです。 心の清い人々とは、自分を見つめるのではなくて、自分と人とを見比べる思いから解放されて、神様だけを見つめている人々のことです。「その人たちは神を見る」とイエス様は言われました。あの徴税人は、ひたすら神様を見つめ、その憐れみと赦しを願いました。その彼が義とされて帰っていった。それは、彼が神様と出会い、その赦しと恵みとをいただいた、ということでしょう。つまり、彼は神様を見たのです。罪や汚れの中にいる者が、その中から、神様の憐れみと赦しをひたすら祈り求める時に、そこで神様を見ることが出来る。そこで神様がご自身を現し、恵みを悟らせて下さるのです。それは何によってでしょうか。それは、御子イエス・キリストによってです。罪と汚れの中で神様の憐れみを求める私たちに、神様は、このイエス・キリストにおいて、ご自身を現して下さるのです。 福音書を読むと、イエス様がどんなことをなさったのかがよく分かります。罪人を赦して食事に招かれました。悲しみと悩みの中にある人には深い同情を寄せ、手を差し伸べ、そういう人々を癒されました。このイエス様のお姿がそのまま、父なる神様のお姿なのです。イエス様は、最後には私たちの罪を全部背負って十字架の上で死んで下さいました。その十字架のイエス様のお姿が、そのままに父なる神様のお姿なのです。 この世界には沢山の辛いことや悲しいことがあります。新聞やテレビのニュースを見ると、本当に目を覆いたくなるような報道が、毎日毎日繰り返されています。この世界は、どうしようもなく自己中心的で、醜く、絶望的ではないか、と思いたくなります。けれども聖書は、「神は、その独り子を十字架に送るほどに、世を愛された!」と語るのです。自分が住んでいるこの世界は、とんでもない世界であって、堕落しきっている。どうにもならない。神様にも見捨てられてしまった。もう諦めるしかない。ある人たちには、そのようにしてしか見えていないのかも知れません。けれども、本当はそうではないのです。神様は、この世界を諦めておられません。今もこの世界を愛して愛して止まないのです。 あるいは、自分自身を見つめる時に、私たちは、しばしば自分が本当に弱く、ちっぽけな存在であることを思い知らされます。なすべき事が出来ず、してはならないことをしてしまう。本当に罪に汚れた人間です。自分の内側を正直に見つめるならば、なんと汚れた人間なのか、なんと卑怯な人間なのか、と嫌になってしまう。けれども、イエス様を知るならば、この私についても、全く新しいことが分かってきます。この私という存在は、神様がご自分の独り子を十字架につけてまでも救いたいと思われるほどに、愛すべき存在であり、掛け替えのない高価で尊い存在なのです。イエス様の十字架によって、私たちの罪は全て赦され、私たちはもう責められるところが何一つない存在なのです。こうしてイエス様のことが分かってくると、世界についても、また自分自身についても、私たちは全く新しい目で見ることが出来るようになります。神様を見る幸いが、ここにあるのです。私たちは、夢や幻の中で神様を見るのではありません。大自然の中で神秘的な思いになることが神様を見ることでもありません。私たちは、主イエス・キリストにおいて、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さった神様を見るのです。よそ見をしないで、つまり自分の良さや立派さ、あるいは罪や汚れに振り回されるのではなくて、ただひたすらに主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人なのです。神様はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと悟らせて下さいます。こうやって見ていくと、今日の御言葉は、ある特別に清い人たちだけに語られた祝福の言葉ではなくて、他でもない、私たち一人一人に向かって語りかけられた御言葉であることが分かります。本来清くない、罪や過ちで汚れている私たちです。ですから、本来、神様を見ることができない私たちです。しかし、そういう私たちに神様を求める思いが与えられ、神様にお会いしたいという思いが芽生え始めました。そして、今、イエス様のお言葉に喜んで耳を傾けています。そういう私たちに向かって、イエス様は「あなた方は幸いである。あなた方はもうすでに清くなっている」と語りかけて下さるのです。何という幸いでしょうか。 2024年度 説教要約 一覧 新約聖書 『マタイによる福音書』
礼拝に来てみませんか? 千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。 ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
「清い」とは、字のごとくに「汚れのない状態」という意味があります。もし、神様の御前に出るに相応しい清さが、「汚れのない状態」だけを指すのであれば、誰一人、神様の御前に立つことは出来ないでしょう。 しかし、ここでイエス様は、そういうことを語ろうとしているのではないと思います。そこで、このことをもう少し深く掘り下げるために、イエス様が語られた一つの譬え話に注目したいと思います。ルカによる福音書18章9節以下の「ファリサイ派の人と徴税人」の譬え話です。二人の人が神殿の礼拝の場へと上りました。しかし、義とされて家に帰ったのは一人だけでした。「義とされた」ということは、神様が彼の礼拝を受け入れて下さった、ということです。つまり彼は「心の清い者」と認められた、ということでしょう。その人とは、当時、誰もが罪人の代表格と思っていた徴税人でした。彼は聖所から遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈ったのです。この礼拝、この祈りが神様に受け入れられ、彼は「心の清い者」と認められました。他方、ファリサイ派の人は神様に義とされなかった。彼は「心の清い者」と見なされなかったのです。この二人はどこが違っていたのでしょうか。ここに、「心が清い」という言葉の意味を知る鍵があります。
ファリサイ派の人は、神殿の聖所のまん前に堂々と立ち、目を天に向けて祈っています。将に、自分は神様の御前に立つことが出来る清い人間なのだ、という自信があったのでしょう。しかし、彼が祈ったことは何だったでしょうか。それは、自分がいかに正しい者であり、いかに罪から遠ざかり、よいことをしているか、ということです。彼は他の人と自分とを見比べています。特に徴税人と見比べて、自分がこのような罪人でないことを感謝します、と祈っているのです。これは、もはや祈りでも何でもない、ただの自慢話でしかありません。彼が見つめているのは神様ではなくて、自分自身なのです。自分がいかに良い者、立派な者、罪から遠い者であるか、という自分の姿を彼は見つめているのです。それに対して、あの徴税人は、遠く離れて立ち、目を天に上げようともしません。しかし彼はただひたすらに、神様を見つめています。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離し、ただ神様の憐れみのみを期待しているのです。この二人の違いが重要です。要するに心の清い人とは、まっすぐに神様を見つめ、神様の憐れみを求める人のことなのです。神様から目を離し、自分がどれだけ良い人間であるか、あるいは罪に汚れ、弱い人間であるか、人と比べてどちらがどうなのか、ということばかりに目を奪われる時に、私たちの心は、たちまち誇りや高ぶりやプライド、あるいは妬みや恨みや卑屈な思いで一杯になってしまうのです。
心の清い人々とは、自分を見つめるのではなくて、自分と人とを見比べる思いから解放されて、神様だけを見つめている人々のことです。「その人たちは神を見る」とイエス様は言われました。あの徴税人は、ひたすら神様を見つめ、その憐れみと赦しを願いました。その彼が義とされて帰っていった。それは、彼が神様と出会い、その赦しと恵みとをいただいた、ということでしょう。つまり、彼は神様を見たのです。罪や汚れの中にいる者が、その中から、神様の憐れみと赦しをひたすら祈り求める時に、そこで神様を見ることが出来る。そこで神様がご自身を現し、恵みを悟らせて下さるのです。それは何によってでしょうか。それは、御子イエス・キリストによってです。罪と汚れの中で神様の憐れみを求める私たちに、神様は、このイエス・キリストにおいて、ご自身を現して下さるのです。
福音書を読むと、イエス様がどんなことをなさったのかがよく分かります。罪人を赦して食事に招かれました。悲しみと悩みの中にある人には深い同情を寄せ、手を差し伸べ、そういう人々を癒されました。このイエス様のお姿がそのまま、父なる神様のお姿なのです。イエス様は、最後には私たちの罪を全部背負って十字架の上で死んで下さいました。その十字架のイエス様のお姿が、そのままに父なる神様のお姿なのです。
この世界には沢山の辛いことや悲しいことがあります。新聞やテレビのニュースを見ると、本当に目を覆いたくなるような報道が、毎日毎日繰り返されています。この世界は、どうしようもなく自己中心的で、醜く、絶望的ではないか、と思いたくなります。けれども聖書は、「神は、その独り子を十字架に送るほどに、世を愛された!」と語るのです。自分が住んでいるこの世界は、とんでもない世界であって、堕落しきっている。どうにもならない。神様にも見捨てられてしまった。もう諦めるしかない。ある人たちには、そのようにしてしか見えていないのかも知れません。けれども、本当はそうではないのです。神様は、この世界を諦めておられません。今もこの世界を愛して愛して止まないのです。
あるいは、自分自身を見つめる時に、私たちは、しばしば自分が本当に弱く、ちっぽけな存在であることを思い知らされます。なすべき事が出来ず、してはならないことをしてしまう。本当に罪に汚れた人間です。自分の内側を正直に見つめるならば、なんと汚れた人間なのか、なんと卑怯な人間なのか、と嫌になってしまう。けれども、イエス様を知るならば、この私についても、全く新しいことが分かってきます。この私という存在は、神様がご自分の独り子を十字架につけてまでも救いたいと思われるほどに、愛すべき存在であり、掛け替えのない高価で尊い存在なのです。イエス様の十字架によって、私たちの罪は全て赦され、私たちはもう責められるところが何一つない存在なのです。こうしてイエス様のことが分かってくると、世界についても、また自分自身についても、私たちは全く新しい目で見ることが出来るようになります。神様を見る幸いが、ここにあるのです。私たちは、夢や幻の中で神様を見るのではありません。大自然の中で神秘的な思いになることが神様を見ることでもありません。私たちは、主イエス・キリストにおいて、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さった神様を見るのです。よそ見をしないで、つまり自分の良さや立派さ、あるいは罪や汚れに振り回されるのではなくて、ただひたすらに主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人なのです。神様はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと悟らせて下さいます。こうやって見ていくと、今日の御言葉は、ある特別に清い人たちだけに語られた祝福の言葉ではなくて、他でもない、私たち一人一人に向かって語りかけられた御言葉であることが分かります。本来清くない、罪や過ちで汚れている私たちです。ですから、本来、神様を見ることができない私たちです。しかし、そういう私たちに神様を求める思いが与えられ、神様にお会いしたいという思いが芽生え始めました。そして、今、イエス様のお言葉に喜んで耳を傾けています。そういう私たちに向かって、イエス様は「あなた方は幸いである。あなた方はもうすでに清くなっている」と語りかけて下さるのです。何という幸いでしょうか。