日曜朝の礼拝「平和を実現する神の子」

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平和を実現する神の子

日付
説教
吉田謙 牧師
9 平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
マタイによる福音書 5章9節

イエス様は、平和を実現する人々は幸いである、と言われました。平和を実現するとは、争いや対立がある所に、平和を確立することです。あるいは、心の平安をかき乱す問題が起こった時に、その問題を解決し、平安を確保する、ということであります。しかし私たちは、そのようにして平和を実現するのではなくて、ただ争いを避けたり、問題を先送りにしてしまうことの何と多いことでしょう。

パウロは、人間の罪の姿を描いて、こう言いました。「彼らは平和の道を知らない。」(ローマ3:17)。私たちは平和を好み、争いを嫌います。けれども、平和の道を知らないのです。

 では、どうすればよいのでしょうか。今日のイエス様の御言葉には、一つの解決の糸口が示されています。「その人たちは神の子と呼ばれる」とイエス様は言われました。子供は親に似るものでしょう。なぜ「平和を造り出す人が神の子と呼ばれる」のかと言うと、それは神様ご自身が平和を造り出すお方だからです。私たちはその神様の子供と呼ばれます。もし私たちに、平和を造り出すことが出来たとするならば、それは神様の真似をしていることになるでしょう。神様の行動に倣い、父の姿を映し出す子供になるのです。ですから私たちは、平和を造り出す道を考える時に、まずこの神様がして下さった事柄に思いを向けなければなりません。

 父なる神様は、イエス様をこの世に送って下さることによって、平和を造り出して下さいました。では、イエス様は、どういう平和を造り出すお方だったのでしょうか。今日は、二つのことを心にとめておきたいと思います。第一にイエス様は、父なる神様に信頼する平安を弟子たちにお与えになりました。これは心の平和、平安の問題です。私は、この平安という言葉を聞く時に、すぐに思い起こす場面があります。それは嵐の湖を静められたイエス様の物語です。ある時に、イエス様と弟子たちの乗った船が嵐に出会いました。ひどい嵐で船は沈みそうになるのですが、イエス様はその船の中で、ぐっすり眠っておられた、と言うのです。ここでイエス様は、怠けて眠っておられたわけではありません。父なる神様に一切を委ねる平安を、イエス様はご自分の姿を通して弟子たちに示されたのです。弟子たちが慌てふためいてイエス様を呼び起こした時に、イエス様は「静まれ!」「黙れ!」と波を叱られました。そして、嵐を静められ、弟子たちにも平安を分け与えて下さったのです。マタイによる福音書8章23節以下の物語です。私は、「平和を実現する人」、「平安を造り出す人」という言葉を聞く時に、この物語を思い起こすのです。嵐の中でも、ご自分は平安であり、その平安を弟子たちにも分け与えて下さったのでした。これは、到底、私たちには真似が出来ない、と思われるのかもしれません。けれども、使徒言行録を見ると、この時にあわてふためいていた弟子の一人のペトロが、やがて、この平安を味わう者へと変えられていったことが分かります。ペトロは、福音を宣べ伝えていたために、ヘロデ王に捕えられて牢獄に投げ込まれました。ヤコブを殺したことがユダヤ人から非常に好評を得たので、ヘロデ王はペトロも捕らえてみたのです。この時のペトロの逮捕は、こういう非常に危険な逮捕でした。ペトロに死が間近に迫っていたのです。ところが使徒言行録によると、その牢獄に天使がやってきてペトロを助けようとした時に、ペトロは熟睡していて、天使が脇腹をつついて起こさなければならなかった、という面白い記事が記されているのです。使徒言行録12章7節です。かつて船で嵐に出会った時には、「もう滅びる!」と大あわてしていたペトロでしたが、使徒言行録を読むと、今度は、明日にも処刑されるかもしれないというその夜に、彼は熟睡していて、天使から脇腹をつつかれなければならなかった、と言うのです。ペトロは、イエス様によって、いつの間にか、嵐の中でも眠ることの出来る人へと造りかえられていたのです。イエス様に従った弟子たちは、最初から立派な優等生だったわけではありません。信仰が立派で、どんなことがあってもおじ惑わない人たちではなかったのです。けれども、イエス様と共に歩んでいく中で、弟子たちは、神様が共にいて下さることが、どんなに平安なことであるかを味わい知り、少しずつ造りかえられていきました。私たちも、今はまだ無理かもしれませんが、イエス様と共に歩む中で、少しずつ嵐の中でも眠ることのできる人へと造りかえられていくはずです。

二番目に、父なる神様は、イエス様の十字架を通して、人と人との間に平和を造り出して下さいました。私たちは時として憤慨し、相手の頬を一発殴ってやりたいと思うことがあるのかもしれません。けれども、その相手の罪もイエス様は完全に背負っておられます。私たちが、「あなたにはこういう欠点がある」「こういう問題点があるではないか」と非難する時に、イエス様は、「それらは全部、私が償った」と言われます。もう私たちには相手を追求し、非難する権利はないのです。クリスチャンは、とても正義感が強いですから、教会の中でも、しばしば厳しく批判し合うことが起こります。けれども私たちは、そういう時にこそ、主イエスの十字架を見上げなければなりません。その時に、主イエスの十字架の愛が、私の上だけではなくて、その人の上にもとどまっていることを認めなければならない。私の罪が赦されているように、あの人の罪も赦されている。私のためにキリストが死んで下さったように、その人のためにもキリストは死んで下さったことを認めなければならないのです。

 イエス様が実現された平和は、私たちが考え、実現しようとする平和とは大きく食い違っていました。私たちは、争いや対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じて、その中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、そういう仕方で平和を実現しようとします。けれども、イエス様はそのどれでもない、全く別の仕方で平和を打ち立てて下さいました。それは、相手の敵意をご自分の身に引き受けて死なれるということ、つまり敗北することによってでした。しかもその敗北の中で、敵を怨むのではなく、赦すのです。そして、「もう敵意は滅ぼされた!」「ここには敵意はない!」と宣言なさるのです。神の子イエス・キリストは、そのようにして私たちの内に平和を造りだして下さいました。

 私たちは、このイエス・キリストに従い、倣うことによって、少しずつ平和を実現する者に変えられていくのだと思います。イエス・キリストに倣う。それは争いを避けることでも、争いに勝利することでもありません。あるいは妥協することでもない。それは、その敵意を真正面から引き受け、赦すことです。そのことによって、私たちは、その敵意を乗り越えていくのです。

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