義のゆえに迫害される人々
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
10 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
マタイによる福音書 5章10節-12節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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10節のところでイエス様は、このように言われました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」そして続く11節のところでは、このことを弟子たちに当てはめながら、このように言い換えられました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」つまり、ここで言う「義のために」というのは、「イエス様を信じる信仰のゆえに」ということなのです。
この弟子たちの指導のもとに建て上げられた初代教会は、やがてイエス様を信じる信仰のゆえに厳しい迫害を経験することになります。最初は、ユダヤ人たちによる迫害でしたが、やがてクリスチャンたちはローマの人々からも厳しい迫害に合うようになりました。暴君ネロと呼ばれる皇帝ネロは、ローマの町の火事の責任をクリスチャンになすりつけ、彼らを処刑することによって人々の自分への不満をそらそうとしたと言います。この時代、クリスチャンたちは猛獣の餌食にされたり、松明替わりに焼かれたりした、と言われています。とんでもないことですね。使徒ペトロやパウロが殉教したのも、ちょうどこの時代でした。このネロによる厳しい迫害は一過性のものでしたが、その後もクリスチャンに対する迫害は組織的に行われ、それが三百年間も続いた、と言うのです。その時、初代教会の人たちはどうしたでしょうか。「憎しみには憎しみを!」とやり返したでしょうか。あるいは、「今は迫害の時だから、ひっそりと隠れていよう。やがて迫害がやんだなら出て行けばよい!」とビクビクしながら隠れ潜んでいたでしょうか。決してそうではありません。教会は今日のイエス様のお言葉に励まされながら、迫害の中にあっても逃げることなく、大胆に福音を宣べ伝えていったのです。憎しみにさらされながらも、憎しみ返すのではなくて、「あなたも神様に愛されています。あなたのためにもイエス・キリストは死んでくださいました。どうか悔い改めてこの福音を信じてください!」と大胆に神の愛を語り告げたのです。このクリスチャンたちの姿が、次第に人々の心を動かしていきました。死をも恐れずに命がけで神の愛を伝えようとするこの人たちの情熱、信仰は本物ではないか、と。
イエス様は今日の御言葉で、迫害を受ける人々、あるいはイエス様に従うことによって様々な損失を蒙る人々に対して、励ましを与えておられます。どういう励ましかと言うと、イエス様はここで「天の国の報い」を約束なさいました。「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」あるいは12節。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」
この世の生活が全てと考えている人にとっては、今が楽しければそれでよいのです。わざわざ神様のために苦しむ必要など感じません。パウロは、このように言っています。「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか。』」コリントの信徒への手紙一15章32節の御言葉です。
「どうせ、この人生は死んだらお終いだ」と考える人は、今さえ楽しく生きることが出来れば、それでよいのです。しかし、私たちクリスチャンは、そうは考えません。何故ならば、私たちクリスチャンは、死の後に、天において私たちを報いて下さる神様を見上げて生きているからです。やがて私たちは神様の前で、今まで生きてきた自分の歩みを調べられ、神様の報いを受けます。あるいは神様の裁きを受けるのです。生きている時間は、長い人でも、せいぜい百年そこそこでしょう。もう永遠に比べたならば、一瞬でしかありません。しかし、死の後の時間は長いのです。永遠に続くのです。私たちは、死の後に神様から、どのように取り扱われるのかを、もっと真剣に考えなければなりません。私たちは、「忠実な良い僕よ、よくやった。あなたは永遠の祝福に入るように!」と神様から言っていただけるでしょうか。あるいは、「怠け者の悪い僕よ。あなたは私の与えた命を何のために用いたのか?!」と神様から迫られるのでしょうか。これは私たちにとって極めて重要な問題です。
イエス様は、「義のために迫害される人々は天で報いを受ける」と約束して下さいました。死の後に神様の前で、永遠の祝福を受けることが出来る、と言うのです。そういう将来を見通しながら、この地上で主のために生きる者たちは、12節のところで、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と勧められています。「大いに喜びなさい」、これは直訳すると、「有頂天の喜びで喜びなさい!」、「狂喜乱舞して喜び踊りなさい!」という言葉です。「今さえ楽しければそれでいい。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という喜びは、決して「有頂天の喜び」とは言えません。やがて死ぬのだから、今は楽しく生きなければならない、これは死の陰に怯えているような沈んだ喜びですね。空しい喜びで人生を費やし、やがて死の後には大きな悲しみを刈り取らなければならないのです。しかし、神様のために、今、苦しむ人は、苦しみの中でも、大いに喜ぶことが出来る、とイエス様は約束して下さいました。今は苦しみ一色だけれど、天では喜ぶことが出来る、というのではありません。そうではなくて、もし今、苦しみを受けていたとしても、その苦しみを突き抜けるような大きな喜びが、今という時に与えられるはずだ、と言うのです。
迫害は、いつでもあるわけではありませんし、またクリスチャンは必ずこの世から憎まれるわけでもありません。ですから迫害に遭遇した時に、果たして自分は信仰を貫き通すことが出来るだろうか、とまだ起こってもいないことを、あれこれ心配したところで、あまり意味がありません。これは、その時になってみなければ分からないのです。ペトロのように、「たとえ死ぬようなことになっても、私は最後まであなたに従い抜きます!」と自信満々に語っていたとしても、いざという時には、すごすごと逃げてしまうかもしれません。そもそも私たちの内には、迫害に耐えうる力などないのです。では私たちは、諦めるしかないのでしょうか。決してそうではありません。これは私たちが頑張ることではなくて、神様の御業なのです。ですから私たちは、神様が最も生き生きと働かれる場所に身を置いておく必要があります。これが、唯一、今、私たちにできることでしょう。では、神様が最も生き生きと働かれる場所とは、いったいどこでしょうか。それは、この礼拝の場なのです。私たちは、今はまだ未完成であり、すぐに挫けてしまうのかもしれません。しかし、それでも諦めることなく、この地道な礼拝生活を続けていくならば、やがて、この私たちの群れも、きっと迫害に絶え得る群れへと神様が導いて下さるに違いありません。