地の塩、世の光
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
13 あなたがたは地の塩である。・・・ 14 あなたがたは世の光である。
マタイによる福音書 5章13節-16節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
ホームページからでしたらお問い合わせフォームを。お電話なら06-6834-4257まで。お電話の場合、一言「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると、話が伝わりやすくなります。
今日の箇所でイエス様は、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われました。この「あなたがた」というのは、直接的には、この「山上の説教」を聞いている弟子たちのことを指しています。しかし、ただそれだけではなくて、その弟子たちの周りには、イエス様に従ってきた多くの群衆がいました。イエス様は、そういう群衆をも含めた、ご自分に従ってきた全ての人々に向かって、この御言葉を語られたのでした。つまり、この御言葉は、私たちにも語りかけられている御言葉である、ということです。 イエス様は、しがない弟子たちや様々な問題を抱えた群衆に向かって、「あなたがたは地の塩、世の光である」と宣言して下さいました。この宣言は、これまで私たちが学んできた幸いの教えと通じるものがあります。この幸いの教えは、「このようにすれば、幸いになれる」という「教え」ではありませんでした。そうではなくて、イエス様は「このような人々は幸いである」と宣言して下さったのです。そこで語られていたことは、この世の尺度からすれば、必ずしも幸いとは言えないようなことばかりでした。しかしイエス様は、「そういうあなたがたが幸いなのだ」と宣言して下さいました。そして今度はその人々に対して、「あなたがたは地の塩、世の光である」と宣言して下さったのです。ですから「地の塩、世の光として生きる」とはどういうことかを知るためには、今まで学んできた、あの幸いの教えを、もう一度、思い起こせばよいのです。そこに語られていた幸いに生きる人こそが、地の塩、世の光なのですから。
例えば、「心の貧しい人々は幸いである」というのは、「心の貧しさ」という美徳を身につけている人が幸いなのだ、という意味ではありませんでした。自分の心の中に、拠り所となるもの、誇るべきものを何一つ持たないのです。豊かさがない。愛がない。度量も狭い。これが「心の貧しさ」でした。つまり「心の貧しさ」とは、幸いではあり得ない私たち人間の現実を表していたのです。けれども、そういう私たちの罪の現実の中に、イエス・キリストが命懸けで幸いを打ち立てて下さいました。「あなた方は幸いである。あるがままのあなた方が神様に祝福されている!」と宣言して下さったのです。勿論、イエス様は私たちの貧しい生き方そのものを肯定なさったわけではありません。心が狭く、愛に欠けている私たちの生き方がそのままに認められたわけではないのです。心の貧しさ、これは言い換えるならば罪でありましょう。罪は罰せられなければならない。神様は、私たちの罪を激しく怒り、裁き、呪い、罰せられます。けれども、その裁きが終わり、刑罰が終わってみると、そこに一人の人が十字架にかけられて死んでいました。そのお方こそ、私たちの救い主イエス・キリストです。イエス・キリストの死によって、神様の怒りは貫かれました。そして、同時に、そこで私たちの罪が裁かれ、罰せられたのです。もう私たちは裁かれる必要がありません。完全なる赦しが与えられたのです。心の貧しい、自らの中に何らよいものがない。拠り所となる豊かさもない。その貧しさのゆえに常に人を傷つけ、問題を起し、悲惨な事態を生んでしまう。そんな私たちを、主イエス・キリストが背負って下さいました。そして「あなたは幸いである。そんなあなたが神様から祝福されている」「もうあなたは、自分の中に豊かさがないと嘆かなくてもいい。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものが何一つなくても、私はあなたを愛する。あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ!」とイエス様は自らの命を懸けて宣言して下さったのでした。
では、そういう幸いが与えられている私たちに求められていたことは、何だったでしょうか。心の貧しい人になろうと努力することだったでしょうか。そうではありません。まずこのイエス様が与えて下さった幸いを素直に受け止めて、喜んで生きることでした。地の塩、世の光として生きる生き方も同じです。肩肘張って、地の塩、世の光になろうとする必要はありません。誰が何と言おうと、もう私たちは地の塩、世の光なのです。イエス様がそう宣言して下さいました。ただ私たちには、それをどのようにして表すかが問われています。まだまだ私は、「地の塩」「世の光」なんて、おこがましくて、とても言うことが出来ない。もっと修行を積んで、人格的にも成長し、清く正しく生きることが出来るようになるまでは、そっとクリスチャンをしています。そうじゃないんです。もう、ここにいるお一人お一人が、あるがままで、地の塩、世の光なのです。何も難しく考える必要はありません。ただ私たちはイエス様の十字架の愛と憐れみを素直に受け取り、自分らしく生きればよいのです。
そもそも私たちがイエス様を信じた時の一番大きな喜びとは、いったい何だったでしょうか。イエス様を信じた時の本当に大きな喜びは、私の今までの全ての失敗、全ての罪が赦されていた、この驚くべき恵みでしょう。またイエス様を信じ続けて、私たちが繰り返し味わう恵みも、悔いてはまた犯す、この私の罪を、イエス様はその十字架の血潮によって全部洗い流して下さった、全部赦して下さった、この恵みです。これに勝る大きな喜びはありません。私たちが人に知らせたいのは、「クリスチャンになれば立派な生活が出来ますよ。清い生活が出来ますよ」ということではありません。十字架の恵みによって、私の全部の罪が赦されている。もう一度、やり直すことが出来る。新しく生きることが出来る。これが私たちの喜びです。そして、これが地の塩、世の光となる道なのです。どんなに大きな失敗をしたとしても、それで人生が終わりではありません。どんなに汚(けが)れた罪を犯したとしても、それで神様から見捨てられたわけではない。私を赦して下さるお方が天にはいらっしゃる。十字架に罪を背負って下さったお方が、私を尚、生かそうとしておられる。「あなたの罪は全部私が担ったから、あなたは完全に赦されている。だからあなたは、くよくよせずに、新しく生き始めなさい。自分らしく輝いて生きるように!」と招いて下さるのです。私たちはそのことを味わっている者として、地の塩、世の光なのです。罪赦される喜びを知っていて、それによって、もう一度新しく生きることが出来ることを知っている。そのことを証しする者として、私たちは地の塩、世の光なのです。
これまでの人生を振り返る時に、私たちは、それぞれに色んな失敗を繰り返してきたのではないかと思います。その一つ一つを思い起こす時に、身が縮むような思いがいたします。けれども、人が赦してくれなくても、あるいは自分で自分が赦せなくても、イエス様はあなたのことを赦しておられます。私たちが本当に心からその罪を悔いているならば、それらは全部、イエス・キリストにあって赦されているのです。ですから、今、これまでの罪を全部かなぐり捨てて、それらを全部、イエス・キリストの十字架によって赦していただきながら、晴れ晴れと新しい歩みを始めていきましょう。そうやって何度でも悔い改めて、「もう一度、新しく生きてみよう!」と新たな決心をもって歩み出す者こそが、地の塩、世の光なのです。