律法の完成者キリスト
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
17 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。・・・ 20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
マタイによる福音書 5章17節-20節
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ここでの「律法や預言者」というのは、旧約聖書全体のことを言い表している言葉です。特にここでは、旧約聖書の中の神様の戒めのことが考えられているのだと思います。イエス様は、その頃のユダヤの掟に対して、非常に自由なお方でした。例えば、その頃のユダヤの掟では、土曜日は安息日という特別な日でしたから、その日には何の仕事もしてはならない、命の危険が伴わない限り、病人を癒すことさえしてはならない、と決められていたのです。ところがイエス様は、そういう掟に縛られることなく、安息日であっても、次々に病人を癒していかれました。その他にもイエス様には、これに類する様々なエピソードがありましたから、人々の間にあらぬ誤解が生じたのです。「イエス様は、掟に縛られない自由なお方なのだから、旧約聖書にある神様の命令からも自由なお方であり、イエス様に従う者たちも、律法を守る必要がないのではないか」と。しかし、イエス様はこういう誤解に対して、今日の箇所で、「決してそうではない!」ときっぱりと断言なさったのです。18節以下のところでイエス様は、このことを様々な言葉で、繰り返し語っておられます。その中でも特に注目すべき御言葉は20節でありましょう。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
旧約聖書の神様の掟を守り、正しく生きることにおいて、ファリサイ派の人々よりも優っていなければ、あなた方は天の国に入ることが出来ない、とイエス様は警告なさいました。つまり、神様の御言葉に真剣に取り組むことなしに救われることはない、ということです。神様の掟を真剣に守ろうとはせず、イエス様は自由なお方なのだから、きっと「あれはしてはいけない!」「これをしなければならない!」という規則を、全部、取っ払って下さるのではないかと呑気に構えていると、結局、その人は天の国に入ることが出来ない、とイエス様は厳しく警告なさったのでした。
ここで言われている「ファリサイ派の人々」というのは、イスラエルの国の中でも、一番真面目に聖書の御言葉を実践しようと努力していた人々です。そういう人々よりも、もっとしっかりと聖書の御言葉を実践しなければ、天の国に入ることが出来ない。これは本当に厳しい要求ではないかと思います。こういう厳しい要求の言葉を聞く時に、果たして私たちにこんなことが出来るのだろうかと困惑せざるを得ません。あるいは、こういうイエス様の要求は、掟から自由に断ち振る舞っていた、あのイエス様のお姿からすると、どうもしっくりこない、矛盾しているのではないか、という思いさえいたします。これは、いったいどう考えればよいのでしょうか。これは、結局、イエス様がこの旧約聖書の神様の戒めを、どのように理解しておられたのかという理解の仕方に鍵があると思います。
神様は、かつて奴隷の状態にあったイスラエルの民を救い出すために、彼らの指導者としてモーセを立てて下さいました。そして、当時世界最強であったエジプトを相手に、その全能の御力をもってイスラエルの民を奴隷の状態から救い出して下さったのです。また追ってきたエジプト兵を、葦の海の奇跡によって追い払って下さいました。その後の荒れ野の旅路においても、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを導いて下さいました。また天からマナという不思議な食べ物を与え、彼らの飢えを満たして下さいました。そして、シナイ山において神様は、そのイスラエルの民と契約を結び、彼らのことを「わたしの宝」と宣言して下さったのです。では、イスラエルの民は、神様から「わたしの宝」と言っていただけるような、優れた民族だったのでしょうか。決してそうではありません。イスラエルの民は他のどの民よりも貧弱であり、しかも主に背き続けてきたのです。そういう彼らを、主なる神様がただ愛のゆえに選び、救い出し、ご自分の宝の民として下さいました。律法の根底には、この神様の熱烈な愛が流れていたのです。ですから律法は、「これこれの掟を守れば、神様が救って下さる」という、救われるための条件を語っているのではありません。そうではなくて律法は、この救いの恵みを経験したイスラエルの民が、これからこの神様の愛に応えて、どのように生きていくべきなのかを指し示す道しるべだったのです。彼らは、最初の内は、このことをよく自覚していたと思います。けれども、時が経つにつれて、次第にこの神様の熱烈な愛が彼らの中でぼやけていきました。その時にいったい何が起こったでしょうか。人々の間に、自らの力で救いを勝ち取っていくという誤った掟の受け止め方が、次第に浸透していったのです。これを律法主義と言います。
結局、イエス様は、愛を見失い、思いやりを見失い、掟を守り通した立派な人間だけが救われるという律法学者やファリサイ派の人々の律法の誤った扱い方に対して、「待った」をかけたのです。決して律法を無視したわけではありません。むしろイエス様は、人々を最初の頃の律法の心に立ち帰らせようとしたのです。このようにイエス様は、神様の掟を、本来あるべき姿で、即ち神様の無条件の愛に基づいて理解していましたから、ある時には非常に自由であり、またある時には非常に厳格であり、真剣であり、本気でこの掟に臨まれたのでした。
さて、17節のところでイエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言われました。この「完成」という言葉は、前の口語訳聖書では「成就」と翻訳されていました。「成し遂げる」という言葉です。「イエス様は律法を成し遂げるために来られた」と言うのです。これは、まず何よりも、イエス様ご自身が、この律法を成し遂げて下さる、ということを言い表しています。イエス様が本来、私たち人間がなすべき業を全部成し遂げて下さり、本来、私たち人間が受けるべき神様の怒りや呪い、刑罰を、全部、十字架の上で引き受けて下さいました。このイエス様が十字架と復活を通して勝ち取って下さった義を、私たちが信仰をもって受け取る時に、私たちの義がファリサイ派の人々の義にまさるのです。しかし、ただそれだけではありません。これは、この律法を私たち皆が成し遂げることが出来るように、イエス様は来て下さった、という意味でもあります。イエス様を信じ、イエス様に従い、イエス様に結ばれた者たちが、やがてこの律法を成し遂げることが出来るようになる、そのためにイエス様は来て下さった、と言うのです。私たちが、イエス様の十字架の愛で赦されながら、しかし赦されるだけではなくて、このイエス様の十字架の愛によって促されながら、何とかイエス様の御言葉に従いたいと願い、飢え渇いているならば、私たちの上にも、確かにイエス様が教えて下さるような生活が、少しずつ実現していくのだと思います。