日曜朝の礼拝「殺してはならない」

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殺してはならない

日付
説教
吉田謙 牧師
21 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
マタイによる福音書 5章21節-26節

 前回、私たちは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」という御言葉を学びました。今日の箇所から、いよいよイエス様は、この「ファリサイ派の義にまさる義」について、具体的に教え始められます。その最初に教えられているのが、今日の御言葉なのです。

 今日の箇所でイエス様は、隣人に対して腹を立てたり、怒る時に、それは殺人と同じように裁判を受けなければならない、と言われました。しかし私たちは、「殺人」と「腹を立てる」ことが同じように扱われることに対して、到底、納得できません。殺人と腹を立てることとでは、あまりにも違いすぎるからです。 しかし、そもそも私たちが腹を立てる時とは、いったいどういう時でしょうか。一つには、自分がおもしろくない目にあった時でしょう。イヤなことをされたり、悪口を言われたりする時に、あるいは不公平に扱われたりする時に、私たちは腹を立てるのです。つまり、私たちには腹を立てる理由がちゃんとあり、少なくとも自分が悪いとは少しも思っていないのです。自分は正しく、相手が悪いと思っている。そして、その怒りが大きければ大きいほど、益々自分が正しくなっていきます。この時、私たちは、知らず知らずの内に裁判官になっているのです。これを聖書では「高ぶり」と言います。

 神様は、人の心の奥底まで見抜いておられます。神様から見れば、殺人も、腹を立てることも、その心の中で起こっている高ぶりは本質的には同じです。そして聖書では、この神に取って代わろうとする高ぶりが最大の罪と言われます。だからこそ主は言われるのです。「いつから、あなたは、そんなに偉くなったのか?!」と。

 こうしてイエス様は、神様の「殺すな」という戒めの深い意味を、私たちに教えて下さいました。殺人というのは、実際に行為として人を殺してしまうことだけではなくて、心の奥底で人を憎み、殺してしまうこともあるのです。あるいは私たちが軽率に語った言葉が、知らず知らずの内に愛する兄弟を傷つけ、殺してしまうこともある。そうやって心の中で簡単に人を殺してしまう私たちに対して、「あなた方にも厳しい裁きがある!」と主は教えられたのでした。

 こういうイエス様の教えを聞く時に、私たちは途方に暮れてしまいます。こんなことを求められるのでは、とても窮屈で、クリスチャンなんてやってられない、と感じるのではないでしょうか。しかし私たちは、このように厳しい教えを語られたイエス様が、その後、どのようにして私たちの救いのために大きな犠牲を払って下さったのかを、しっかりと心に刻んでおかなければなりません。

 イエス様は人々に見捨てられ、最後には信頼していた弟子たちにも見捨てられ、不当な裁判にかけられた末に、ついには死刑を宣告されました。そして、当時の極刑、あの壮絶な十字架の刑に処せられたのでした。確かに十字架の刑罰は、壮絶な苦しみを伴うものでした。しかしながら、イエス様の十字架の苦しみは、ただそういう肉体的な苦しみだけではなかったのです。イエス様はそこで神様から完全に見捨てられるという想像を絶する苦しみを味わい尽くされたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、あのイエス様の十字架の叫びは、そのことを、よく言い表していると思います。本来、イエス様は、そのような刑罰を受ける罪など一つも犯されませんでした。「兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける」、「兄弟にばかと言う者は、最高法院に引き渡される」、「兄弟に愚か者と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」、イエス様は、本来、私たちが受けなければならなかったこれらの刑罰を、すべてお一人で引き受けて下さったのです。そして「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成し祈られながら、十字架の上で息を引き取られたのでした。これほどまでにイエス様は、私たちのことを愛して愛して止まなかった。何とかして救おうと必死になって下さったのです。これがイエス・キリストの十字架の愛です。このイエス・キリストが「兄弟と和解しなさい」と私たちに命じておられます。これは、私たちを途方に暮れさせる無理難題でしょうか。決してそうではないと私は思います。イエス様が私たちと神様との和解のために、私たちの反感や敵意を受けとめ、また神様の怒りや呪い、裁きを全部受け止めて、十字架の上で死んで下さいました。その与えられた恵みに応えて、私たちも自分に反感や敵意を持つ兄弟との和解に生きるのです。それは、そうしなければ救われないという掟や戒めではありません。そうではなくて、むしろ私たちはイエス様によって、そのように生きることが出来る者へと少しずつ造り変えられていくのです。イエス様が律法を完成して下さるとは、そういうことなのです。イエス様は、「兄弟と和解しなさい」という命令を、ただ命令として与えられただけではなくて、まずご自分の命を捨てて、私たちと神様との和解を打ち立てて下さいました。私たちはこのイエス様の恵みの中で生かされることによって、少しずつ自ら進んで兄弟と和解していく者へと造り変えられていくのです。

 クリスチャン作家の三浦綾子さんの祈りが、ある書物に掲載されていました。「愛なる主よ。今日私は、生きることが苦しいのです。一人の人の敵意を、心の奥深く感じたからです。主よ、私はなんと愚かな者でしょう。優しい夫があり、案じてくれる肉親たちがおり、多くの友がおりますのに、只一人の人の冷たさが、私を耐え難くするのです。でも主よ、主が私に耐えることをお望みでしたら、私は耐えて行きとう存じます。いいえ、耐えるよりも、その人を愛する力を頂きとう存じます。主よ、愛することを教えて下さいませ。」こういう祈りです。

 私たちも、苛立ちを覚えた時に、こぶしを握りしめる前に、まず十字架のイエス様のお姿を心に刻みつつ、「愛することを教えてください!」と祈ることから始めたいと思います。

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