結婚の清さ
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
27 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
マタイによる福音書 5章27節-32節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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ここでは「あなたは姦淫してはならない」という十戒の第七番目の戒めが取り上げられています。姦淫の罪は、当時のユダヤ社会においては、結婚ないし婚約をしている人が、夫や妻、もしくは婚約者以外の異性と関係を持つことを意味していました。つまり、姦淫とは、夫婦の関係を破壊する行為を指していたのです。しかし、この戒めは、本来、そういう具体的な行為だけを禁じていたわけではありません。この戒めは、本来、心の内側における姦淫さえも禁じていたのです。十戒の第十番目には「あなたは貪ってはならない」と戒められていました。これは、この十戒の戒めが、ただ行動だけを戒めているのではなくて、その行動の根っこにある「貪りの心」をも戒めていることを明らかにしていたのです。ところが、当時の律法学者たちは、「姦淫するな」という戒めと「貪るな」という戒めを、全く別々の戒めとして受け止めていました。ですから自分たちは姦淫していないから大丈夫なのだ、と安心しきっていたのです。
ところがイエス様は、そういう具体的な行為だけが姦淫の罪にあたるのではなくて、そういう思いを抱くだけで、既に姦淫したことになる、と教えられたのでした。これは、当時の律法学者たちが見失っていた、本来の十戒の心を、イエス様が再評価された、ということでしょう。ここでイエス様は、性的欲望を抱いてはいけないと教えられたのではありません。そうではなくて、人の夫婦関係と自分の夫婦関係を大切に守るように、と教えられたのです。しかもそれは、ただ「浮気をしない」という外面的なことにとどまるのではなくて、心の内側にまで踏み込みながら、この結婚の関係を大切にするように、と教えられたのでした。
ある時、イエス様は、ユダヤ教の指導者たちから、離縁についての考え方を問われた時に、旧約聖書の創世記の記事を引用しながらこのように答えられました。「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない。』」(マタイによる福音書19章4-6節)。
この世界が始まって以来、いったいどれだけ多くの人間が生まれ、また死んでいったことでしょう。そういうとてつもない数の人間の中から、私たちは、たまたま、今、同じ時代に生きています。これはよくよく考えてみると、信じられないようなことなんですね。もうこのこと自体が本当は奇跡的なことなのです。しかも、同じ国で生まれ、同じ国で育ち、その中から不思議な仕方で出会いが与えられ、更に結婚するという深い結びつきにまで至る、これは「偶然の産物」と言って、簡単にかたづけるわけにはいきません。これはまさしく、限りなく不可能に近い可能性の中から、神様ご自身が結び合わせてくださった、ということでしょう。そのことをしっかりと受け止めることこそが、結婚の正しい受け止め方なのです。
ある時、姦通の現場で捕えられた女性がイエス様のもとに連れて来られました。その時に、そこにいた人々は「律法には、そういう者は石で打ち殺せと書かれているが、あなたはそれをどう考えるか?!」とイエス様に問いかけました。それに対してイエス様は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えられたのです。すると、そこにいた人々は、年長者から始まり、一人また一人と立ち去ってしまい、とうとう最後には誰もいなくなってしまいました。これは、「人を裁いて石で打ち殺そうとしているあなたがたも、結局は同じような罪を犯しているのではないか?!」というイエス様の問いかけであり、本当に考えさせられる場面です。しかし、肝心なのは、その後の場面でしょう。姦淫の罪を犯した女性に対して、主はこう宣言されたのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネによる福音書8章11節)。私たちは、このお言葉の重さをしっかりと受け止めなければなりません。「わたしもあなたを罪に定めない」というのは、「私も罪人だからあなたを罪に定める資格などない」ということではありません。イエス様だけが罪のないお方であり、唯一、この女性に石を投げる資格のあるお方でした。またこれは、「姦淫の罪など大した問題ではないから、このことは忘れて、新しくやり直してみたらどうか?!」ということでもありません。イエス様は、姦淫がいかに重い罪であるかをよくご存じでした。この女性は、神様が結び合わせて下さった交わりを、ぶちこわしてしまったのです。それは、神様と隣人に対する大きな罪でした。彼女は将に、石で打ち殺されるべき罪人だったのです。けれども、イエス様はそのことをよくご存じの上で、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言なさったのでした。これは即ち「私が、あなたのその姦淫の罪を、この身に背負って十字架の上で身代わりの死を遂げるから、あなたは赦された者として新しく生きなさい!」ということでしょう。姦淫の罪を犯した者に、唯一石を投げることのできるお方が、その罪を背負って十字架の死への道を歩み通して下さいました。そのことによってイエス様は、罪の赦しを私たちにもたらし、私たちが赦されて新しく生きることができるようにして下さったのです。「わたしもあなたを罪に定めない!」この重い恵みの御言葉は、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と続きます。これからは、もう「姦淫してはならない」とイエス様は、この女性に対して語りかけてくださったのでした。
私たちは本当に弱いですから、すぐにこの結婚の関係の大切さを見失い、お互いに傷つけ合ってしまうことがあります。ところが、嬉しいことに、そんな私たちの弱さを主はちゃんとご存じです。「そんなあなたを救うためにこそ、私の十字架はあった!」と主は慰めて下さいます。この十字架の恵みをしっかりと心に刻みつつ、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」というイエス様のお言葉に促されながら、諦めることなく、互いに赦し合い、欠けは補い合い、支え合っていく、そのようなキリストの十字架の愛に根ざした愛の交わりを、それぞれの仕方で、少しずつ築き上げていきたいと思います。