日曜朝の礼拝「敵を愛しなさい」

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敵を愛しなさい

日付
説教
吉田謙 牧師
44 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
マタイによる福音書 5章43節-48節

 今日の御言葉の中心は44節の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という御言葉です。この世の常識は、自分を愛してくれる人を愛する、自分によくしてくれる人に対して良いことをする、ということです。人は愛されることによって、愛することを学んでいくのです。たくさん愛された人は、たくさん愛することが出来る、これが愛の自然の法則であり、この世の常識でありましょう。人は愛されなければ、愛することが出来ません。敵を愛するというのは、この自然の法則に反することなのです。イエス様はここで、そういう自然の法則を越えた奇跡的な愛をあなたがたは実践するように、と教えられました。

 では、どこからそういう奇跡的な愛が生まれるのでしょうか。イエス様は、今日の御言葉で、天の父の愛を私たちに示されました。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(45節)。

 私たちは、毎日の生活の中で、数え切れないほどの恵みを受け取っています。太陽や雨は、その一つの例にしか過ぎません。そして、この太陽や雨は、神様が敵をも愛しておられることの証しなのです。これは、信仰によらなければ理解できない事柄です。けれども、私たちがそれに気づいていようが、気づいていまいが、この神様の愛の贈り物は、途絶えることなく私たちのもとに届けられています。神様を信じる時に、私たちはそのことに目が開かれるのです。私たちは、毎日の具体的な生活の中で、神様に愛されていることを味わうことが出来る。朝ごとに、神様は私たちに太陽を与え、私たちを照らし、私たちをあたためて下さいます。また一雨ごとに、神様は私たちを潤して下さいます。私たちの日ごとの食事や睡眠等、その一つ一つが、本当は神様からの恵みであり、神様が私のことを愛しておられる証しなのです。私たちが神様に感謝せず、神様を忘れ、教えに背いて生きている時にも、朝日が昇り、雨が降り、食事が与えられます。クリスチャンは、こういう毎日の恵みを数えながら、神様に感謝し、この神様の豊かな愛を味わっているのです。

 勿論、私たちはもっと深い愛を知っています。それは、神様が十字架を通して示して下さった敵をも愛する「究極の愛」です。私たちが敵であった時に、神様は御子を十字架につけて、私たちへの愛を現して下さいました。これは私たちが生まれた時から生涯の終わりに至るまで、ずっと変わらずに届けて下さる神様の究極の愛です。私たちが感謝もせず、賛美もせず、人を愛することなく、自分中心に生きていた時にも、神様は私たちを愛し抜いて下さいました。そして神様はご自分の独り子をこの世に送り、敵対する私たちを救うために、この独り子を十字架につけて下さったのです。本当に感謝なことですね。しかし、そうやって十字架の愛によって愛されながらも、私たちは、今もなお罪を犯し続けています。これはとんでもない裏切り行為です。ところが神様は、そんな私たちを決してお見捨てになりません。なおも赦し続けて下さいます。悔いてはまた罪を犯す懲りない私たちを、これ以上は赦せないというのではなくて、繰り返し繰り返し赦し続けて下さるのです。この神様の深い憐れみと驚くべき恵みを、私たちが心底、味わい続けていくならば、私たちの内にも、この敵を愛する愛が自然と育まれていくのではないでしょうか。まだ完全ではありませんから、様々な失敗を繰り返します。けれども、この神様の愛で愛され続け、日ごとに私たちが自分の罪を言い表し、この罪人の私を赦して下さる神様の愛を味わい続けていくならば、私たちの内にも、この驚くべき愛が少しずつ育まれていくのです。

 45節のところには、「あなたがたの天の父の子となるためである」と言われています。これは、私たちが敵を愛するようになったなら、神様が私たちの父となって下さる、ということではありません。神様は既に私たちの父なのです。イエス様の十字架の贖いによって私たちを完全に赦し、この怒りっぽい私たちをも神の子として下さいました。ただ私たちの方が、この父の子らしくなる必要がある、と主は言われます。これは、いったいどういう意味でしょうか。この「父の子となる」というのは、「父に似た者となる」と言い換えることも出来るでしょう。48節のところに、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われています。これが「父の子となる」という言葉の意味です。神様の方は、もう既に父なのですが、子供の方がいっこうに父に似ようとしないのです。しかし、それではいけない。「あなた方は、既に父の子なのだから、父の子らしく、神に似る者となりなさい」とイエス様は命じられたのでした。勿論、これは私たちが自分の力で出来ることではありません。そんなことは、到底、不可能です。ここで特に注意しておきたいのは、この「完全な者となりなさい」という言葉の意味です。これは、日本語訳だけではよく分からないのですが、原文を見ると、この言葉は「命令形」であると同時に「未来形」でもあります。つまり、この「完全な者となりなさい」という言葉には、「完全な者となるだろう」という意味合いも込められているのです。これは何を意味しているのでしょうか。それは、この言葉は命令であると同時に、「イエス様が私たちを、やがて完全な者として下さる」という「約束の言葉」でもある、ということです。つまり、これは「私はあなたがたをこのように造り替える!」というイエス様の教育方針であり、イエス様の決意表明なのです。

 高校野球やプロ野球を見ていると、優秀な監督がきたチームは、だいたい、すぐに力を伸ばしていくことが分かります。ピッチャーに対しては「三振を奪え」と命じます。あるいはバッターに対しては「ヒットを打て」と命じます。そうやってただ命じるだけならば、誰にでも出来ることでしょう。しかし、名監督と言われる人たちは、ただ命じるだけではなくて、実際に三振を奪い、ヒットを打たせることが出来るのです。イエス様が命じられる時にも、同じようなことが言えるのではないでしょうか。イエス様は、ただ「敵を愛しなさい!」と命じられただけではなくて、実際に人をそのように造り替えて下さいます。十字架の愛に絶えず私たちを浸しながら、私たちを命じた通りに造り替えて下さるのです。

イエス様の山上の説教の御言葉は、よく現実離れした御言葉のように思われがちです。しかし、主が私たちを変えて下さる力をもちながら、「このように生きてみなさい」と言って下さるのですから、この主の約束を信じ、たとえ不完全であっても、今、自分に出来る精一杯の仕方で、この主の御言葉を実践していきたいと思います。

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