日曜朝の礼拝「キリストの降誕」

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キリストの降誕

日付
説教
吉田謙 牧師
6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ルカによる福音書 2章1節-12節

ここに一組の若い夫婦がいます。ヨセフとマリアです。妻のマリアは、もう臨月を迎えています。ところが、そんな彼らのもとに予期せぬ知らせが届きました。何年もかかったと言われている大掛かりな人口調査が、ひょんなことから、出産が間近に迫っている家庭にも及んでいった、と言うのです。しかし、ここで、ある疑問が生じてきます。本来、人口調査というのは、いちいち家族全員が出かけて行かなければならないものではありませんでした。家長であるヨセフが家族を代表して、出かけて行けばよかったのです。それなのに、どうして身重のマリアまで一緒に人口調査に出かけて行ったのでしょうか。目的地は、夫のヨセフの故郷であるダビデの町、ベツレヘムです。ナザレの町からそのベツレヘムの町までは、おおよそ120キロほどあった、と言われています。今のように、電車やバスなどがある時代ではありませんから、この距離を徒歩で、あるいはロバに乗って旅をするというのは、普通の人であっても大変な旅であったと思います。ましてや身重のマリアにとっては、とても辛く、危険な旅であったことでしょう。何故、マリアはそんな危険を犯してまで、敢えてヨセフと一緒にベツレヘムへ出かけて行ったのでしょうか。

 おそらく、マリアの妊娠に対して、世間の目が非常に厳しかったのだと思います。当時、婚約はしていても、まだ結婚生活をしていない時期に女が身ごもるというのは、許されざる戒律違反でした。「何たることか!」「恥を知れ!」小さな村であればある程、彼らは肩身の狭い思いをしていたに違いありません。そんな中、マリア一人を置いて、長い旅に出かけることなどヨセフには出来なかったのでしょう。マリアにしても、村人の冷たい視線の中で、一人で出産するよりも、たとえ旅の途中で出産することになったとしても、愛するヨセフに見守られながら出産することの方がよっぽど良い、と決心したのだと思います。

 また、そうやって辛い決断をして旅立ち、やっとの思いで辿りついたベツレヘムの町においても、彼らは予想外の苦境に立たされました。二人が辿り着いたベツレヘムの町は、既に住民登録のために一挙に押し寄せてきた人々でごった返していて、彼らの泊まる場所は、どこにも見出せなかった、と言うのです。これも、普通に考えるならば、おかしなことでしょう。ベツレヘムはヨセフの故郷でした。当然、この町にはヨセフの親類が大勢いたはずです。にもかかわらず、彼らには、このベツレヘムにも居場所がなかった、と言うのです。つまり、彼らは親類からも、つまはじきにされていて、マリアは臨月の身を泊まる場所もなく、横たえねばならなかったのです。しかも、この調査の真っ最中に、マリアは月が満ちて、やむなく薄汚れた、悪臭のする家畜小屋の中で出産するはめになってしまいました。そして、生まれたばかりの赤ん坊を、なんと家畜の餌入れである飼い葉桶の中に寝かせた、と言うのです。どれほど心細く、惨めだったことでしょう。これが聖書の伝えるイエス・キリストの誕生です。

 このように、本来、ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリアがベツレヘムで出産する必然性など全くなかったにも関わらず、皇帝アウグストゥスの勅令が発令されたために、しかも、その時、マリアの妊娠に対する人々の冷たい視線があったがゆえに、彼らは期せずして身重の体でベツレヘムまで旅するはめになりました。そして、ついにはその旅先のベツレヘムでイエス様を出産することになったのです。こうして、旧約聖書ミカ書5章1節の預言が成就したのでした。ミカ書5章1節には、こう記されています。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

 これは、神の民イスラエルを治める者、即ちまことの支配者であり救い主であるお方が、ベツレヘムで、ダビデの子孫から生まれる、という預言です。イエス様が、様々なものに翻弄されながら、期せずしてベツレヘムでお生まれになったことによって、この預言が成就したのでした。つまり、このイエス様のベツレヘムでの誕生は、主なる神様が前もって計画し、告げておられたご計画の成就であり、神様の御心の実現だったのです。皇帝アウグストゥスの勅令は、この神様のご計画の実現のために用いられました。皇帝が、この世の支配者として下した命令によって、確かにヨセフとマリアは苦しい旅を強いられました。けれども、その皇帝の支配をも用いて、神様はご自身の計画を着実に進めていかれたのです。今日の箇所でルカは、まずそのことを読者たちに伝えたかったのでした。

 今、私たちには、色んな気掛かりなことがあります。環境破壊や温暖化のこと、この国の政治のこと、また国際社会の動向、各地の戦争が収束せず、もしかすると第三次世界大戦が勃発するのではないか等々、不安なことをあげればきりがありません。また、各々の個人的な生活の中にも、様々な不安、気掛かりなことが沢山あると思います。そのような不安や憂慮、心配をかかえつつ、この世を歩んでいる私たちに、今日、この主のご降誕の物語が与えられました。この御言葉を通して、私たちは、イエス・キリストが、不安や憂慮、心配に満ちたこの世の歴史のただ中に生まれて下さったことを示されます。そもそもイエス様の誕生の出来事そのものが、世界を支配する皇帝の権力に翻弄される中で起りました。けれども、私たちがここで同時に示されるのは、それら全てのことを、背後で導き、支配し、用いておられるのは、主なる神様なのだ、ということです。

 私たちが今感じている様々な不安や憂慮、心配も、全て、この父なる神様の御手の中にあります。皇帝の理不尽な命令や人々の冷たい視線をも用いて、神様は、約束通りに救いの御業を成し遂げて下さいました。同じように、神様は、今私たちが感じている様々な不安や心配事をも用いて、必ず救いの御業を成し遂げて下さるはずです。私たちはそのことを信じ、これからも諦めることなく、この世の戦いを戦い抜いていきたいと思います。

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