神の前を生きる
- 日付
- 説教
- 吉田謙 牧師
3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。。
マタイによる福音書 6章1節-4節
千里摂理教会の日曜礼拝は10時30分から始まります。この礼拝は誰でも参加できます。クリスチャンでなくとも構いません。不安な方は一度教会にお問い合わせください。
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今までにも何度もお話ししましたように、このイエス様の山上の説教は、法律の条文のようなものではありません。例えば、5章39節のところに、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と言われていました。もし、この教えを皆が文字通りに実践し、無抵抗主義をとったならば、おそらくこの世界は、無法地帯になってしまうでしょう。これは、その通りに行いなさいという規則ではなくて、そのような衝撃的な言い回しによって、イエス様には、どうしても伝えたいメッセージがあったのです。イエス様は、こういう言い方で、むしろ「どんな場合であっても、敵意を返すのではなくて、愛をもって接するように」と勧められたのでした。相手を本当に愛しているならば、決して無抵抗主義にはならないと思います。相手を本当に心から愛しているならば、時には愛の鞭でもって厳しく接することもあるのです。
「右の手のすることを左の手に知らせない」という御言葉も同じです。本当にそんなことが出来る人は誰もいません。しかし、イエス様はこういう言い方で、私たちの心に、どうしても伝えたいメッセージがあったのです。それは、自分を見つめて生きるのではなくて、神様に目を向けて生きる、神様に向かってひたすらに生きる、ということです。善い行いをする時に、自分に向かって、「自分はいいことをしたんだ」と自己満足に生きるのではなくて、また人から感謝されようと思ってするのでもなくて、神様に向かって生きるのです。こういう生き方のことをイエス様はここで、心に突き刺さるような言い方で教えられたのでした。
私たちが奉仕をする時のことを考えると、これ見よがしに「私は奉仕をしています」とラッパを吹き鳴らす人はいないと思いますが、「自己満足のため」、「人に評価されたいがため」という気持ちがゼロという人は、おそらく一人もいないと思います。けれども、私たちには、それ以上に強い気持ちがあると思います。それは「神様に喜ばれることをしたい」という思いです。
私自身の働きのことを考えてみても、そう思います。「自己満足のため」、「人に評価されたいがため」という気持ちが全く無かったならば、どんなに素晴らしいことだろうと思います。しかし現実には、やはり人の目も気になりますし、自分で自分のことも気になります。けれども、そういう思いを、全て削ぎ落としてしまったならば、もう牧師の働きをする気力が湧いてこないのか、というと、決してそうではありません。一番深いところで私を動かしているのは、やはり「神様に喜ばれる働きをしたい!」という願いです。これはクリスチャンであるならば、誰しもそうなのだと思います。決して完璧ではありません。様々な不純な思いが私たちにはこびりついています。けれども、「一番深いところであなたを動かしているのは何ですか?!」と問われたならば、やはり私たちは、「神様に喜ばれるように生きたいという願いです!」と答えるのではないでしょうか。
そのような素晴らしい志が、私たちには既に与えられているのですから、それが埋もれてしまわないように、自分自身を励ましていかなければなりません。うっかりすると、すぐに不純な思いが、私たちの心を奪い取ってしまうからです。
しかし同時にイエス様は、今日の箇所で「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いて下さる」と約束して下さいました。これは本当に嬉しい慰めの言葉ではないかと思います。神様は、隠れたことをご覧になるお方として、報いて下さる、と言うのです。私たちは、どちらかと言うと、「人からは誉められることがあっても、隠れたことを見ておられる神様から見たならば、私の奉仕は落第点ではないか」と思うことが多いのではないでしょうか。私たちの行いの中には、沢山の罪が混じっているからです。しかしイエス様は、ここで「あなた方は隠れたことを見ておられる神様の裁きに委ねなさい」とは言われませんでした。そうではなくて、「隠れたことを見ておられる神様が報いて下さる」と約束して下さったのです。
「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と主は言われました。神様は私たちの父なのです。父親が子供を見る目というのは、非常に優しい眼差しではないかと思います。運動会で、たとえビリであったとしても、その一所懸命走っている我が子の姿を、父親が嬉しそうにビデオにおさめている姿は、よく見る光景でしょう。下手くそな走り方でも、一生懸命走っている我が子の姿を見て、父親は「よく頑張った!」とその姿を喜んでビデオにおさめるのです。これが父親の姿です。神様は、隠れた事柄を全部ご存じであり、しかも人間よりも、はるかに正確に人間を見ておられます。けれども、それは裁判官の目ではなくて、父親の眼差しです。全てのことを見ておられる神様、心の奥底までお見通しの神様が、裁判官ではなくて、父親として見ておられるのです。私たちのすることは本当に下手くそな愛し方であり、下手くそな施し方であり、下手くそな奉仕の仕方なのです。けれども神様は、父親として全部のことを見ておられ、「お前のここがよかった!」と報いて下さいます。私たちは、「こんな自分では、到底、神様には評価してもらえないだろう。だから、せめて人からは褒めてもらいたい、と思いがちではないでしょうか。けれども、本当はそうではないのです。神様はちゃんと報いて下さいます。これが今日のイエス様の約束なのです。
私たちが気づかなかったことについても、イエス様はとても重く取り上げて下さいます。私たちは自分の目には見えていて、人の目に隠れたことだけが、隠れたことと思いがちです。しかし、神様が見つけ出す隠れたこととは、それとは全然違います。私たちが気づかなかったことについても、「よくやった」と評価して下さるのです。
天地の造り主なる神様が、この私のことを、ご自身の独り子と引き替えにして下さるほどに、価高く、尊い存在として見ていて下さり、愛していて下さいます。そして、その神様の愛は、決して変わることがありません。私たちが年老いて仕事が出来なくなっても、若い時の元気や美貌が失われていっても、たとえ寝たきりになったとしても、あなたがあなたであることには変わりない。そしてあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛している、と言って下さる。「あなたは生きよ。永遠の命を受けよ」と、ご自分の独り子を身代わりとして十字架に送って下さったのです。この父なる神様の愛の中に私たちが身を置く時に、もう私たちは人の評価を恐れなくてもいい。一生懸命自分に価値があることを人に示さなくてもいい。自分らしく輝いて生きることが出来る。揺れ動く人の評価ではなくて、天地を造られたお方が、私たちを値高く、尊い存在として見ていて下さるからです。